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鵐の窟<神奈川県真鶴町>

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※このページの写真は2023年2月5日

石橋山合戦に敗北した源頼朝は土肥実平たちのおかげで湯河原の山中から真鶴へ移動し、船で安房(現・千葉県)に渡ります。
船に乗る前に隠れていたのが鵐の窟。下記の緑の★のところです。
大まかな地図ですが位置の参考に。
伊豆半島~三浦半島~房総半島

あれ?隠れていたにしては小さい??
写真右側

解説板より
波の浸食によってできたこの海食洞はしとどの窟と呼ばれています。
1180年(治承4年)石橋山合戦で平家に敗れた源頼朝は箱根山中や湯河原のしとどの窟を経て、最後はここ真鶴のしとどの窟に身を隠しました。

追手をやり過ごした頼朝は、7人の家臣と共に真鶴の海岸から安房の国へ脱出したと伝えられています。

また、頼朝が窟に逃げ込んだ際に、追手が窟を覗くと「シトト」と言われる鳥(ホオジロの一種)が急に飛び出してきたので、人影がないものとして追手が立ち去ったことからこの名前が付いたと言われています。

■しとどの窟の変化
頼朝の時代には130mの奥行きがあったと言われる窟も徐々に波に削られ、幕末には幅3m、奥行き11mほどの大きさとなっていました。

当時の窟は海に面していましたが大正関東地震による土地の隆起で現在の高さとなります。
さらに第二次世界大戦時、真鶴岬溶岩(安山岩質)から成るこの場所は、三浦半島に海軍飛行場を作るため、資材として多くの石が切り出され、今の規模となりました。

■真鶴の三名字の由来
真鶴に古くからある名字として「青木」「五味」「御守」の3つがあります。
頼朝がしとどの窟に身を隠した際に手助けをした功として、手助けの内容にちなんだ姓を与えたという言い伝えがあります。

木の枝で入り口を隠した者には「青木」、食料の手配をした者には五つの味わいを意味する「五味」、追手から頼朝を守るための見張り役をした者に「御守」の三名字です。

ジオパークの説明

説明を読んで納得、800年以上経つ間に変化したり資材に使われたりしたんですね。
石碑も

左の石碑の拡大
江戸時代作らしい

この絵については道路に面した下記の碑の最後に『江戸時代に陰山道人による頼朝画像と銘文のある石碑が残っています』と書かれています。
ほぼ同じ内容

現地を訪れた際にはぜひ、窟の中もぜひ覗いてみてくださいね。格子の間から写真も撮れます。
入口

住所
神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴
交通
①車が便利
②JR「真鶴」駅から東南へ徒歩30分
※駅前の真鶴観光案内所にレンタサイクルがあるらしい

探訪について
自由
探訪目安時間
15分~
お気に入り度
★★★★★
探訪日
2023/02/05
備考

更に南東へ徒歩8分ほどの場所にある貴船神社内には源頼朝の腰掛石があります。
貴船神社についてはこちら↓
https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/kibunejinjya_ma/

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