石橋山合戦に敗北し真鶴から船で出航、上陸したのが猟島と伝わります(吾妻鏡より)。
猟島が現・鋸南町の竜島と云われ、その近くの頼朝が滞在した場所が神明神社となっています。
※他の地の説もあります。
まずは上陸の地、次に神明神社について見て行きたいと思います。
海を臨む場所で南国風の木も。
②JR「保田」駅:ほたえき:から鋸南町営循環バス(赤バス)乗車約8分、「竜島」バス停下車西へ徒歩8分
↓循環バスについては鋸南町ホームページ
https://www.town.kyonan.chiba.jp/soshiki/6/1828.html
千葉県指定史跡
昭和10年3月26日指定
千葉県鋸南町竜島165-1
治承4(1180)年8月、伊豆で挙兵した源頼朝は、23日、平家方の大庭景親との石橋山の戦いに敗れ、真鶴より海路小舟で脱出し、安房国へ向かいました。
「吾妻鏡」によれば、「29日、武衛:ぶえい:(頼朝)、(土肥)実平を相具:あいぐ:し、扁舟:へんしゅう:に棹さし安房国平北郡猟島:りょうじま:に着かしめ給う。北条殿以下人々これを拝迎す」とあり、上陸地点の猟島が現在の鋸南町竜島:りゅうしま:とされています。
頼朝はここで先着の北条時政、三浦義澄らと合流し、再起を図りました。当時房総には、下総の千葉常胤、上総の上総広常、安房の安西景益、丸信俊ら源氏恩顧の豪族が多く、また内房沿岸は対岸三浦半島の三浦氏の勢力範囲でもあり、頼朝が房総での再起を選んだ理由と考えられています。
房総一の兵力を誇っていた上総広常のもとへ向かうべく、外房の長狭:ながさ:(鴨川市)へ進んだ頼朝一行は、9月3日、平家に味方する地元の豪族・長狭常伴:ながさつねとも:の襲撃を一戦場で撃破。ひとまず安西景益の館(南房総市池ノ内)へ入り、各地の豪族へ使者や書状を送り見方を募り、情勢を見極めます。
その間、洲崎神社(館山市)、丸御厨:まるのみくりや:(南房総市丸山)などへ足を運び、13日、安房を進発して兵力を加えつつ房総を北上、鎌倉へと入りました。
東国の豪族たちを糾合し、平家を滅ぼし、鎌倉幕府という武家政権を樹立した源頼朝の再起の一歩はここから始まったのです。
バス停から海側へ向かって歩くと約100mのところに下記の写真があり、道路のまっすぐ突き当たりが上陸地の碑です。
到着。
「昭和55年1月吉日再建」
再建なんですね。以前はどのような碑だったのでしょう?
釣人が訪れる場所のようで、整備されています。
駐車場の一部ですので探訪の際はお気をつけください。
頼朝はこの海を見て何を感じていたのでしょうか。
ここは夕陽が美しいそうですが、残念ながら曇り空…次回訪れるときは夕陽に期待!!
次に神明神社へ。東へ徒歩5分ほどで到着します。
上陸後の頼朝が滞在した場所で、現在は神明神社となり、竜島区民会館が隣接しています。
鋸南町は2019年の台風被害が大きかった地域の一つで、半年経ってもこのようにブルーシートで覆われている家屋が多く見られました…
すぐ隣に竜島区民会館。地元の方々が集まる場所なのでしょう。
由緒などはありませんが、鋸南町公式サイトの頼朝伝説が参考になります。
https://www.town.kyonan.chiba.jp/soshiki/19/2294.html
観光などで千葉を、鋸南町を訪れることが復興につながります。
早くブルーシートが不要になりますように。
保田駅前の観光案内図。
保田駅前などから出ている鋸南町営循環バスには赤バスと青バスがあり、青バスには「よりともくん」が描かれています。
※竜島から保田駅方面が青バスです
そして、バスの車内アナウンス「次は竜島、竜島。源頼朝上陸の地へは次でお降りください」
↓循環バスについては鋸南町ホームページ
https://www.town.kyonan.chiba.jp/soshiki/6/1828.html
鋸南町は河津桜を「頼朝桜」と呼び、頼朝も推奨されているんですね。
↓その他、館山市の上陸地の説はこちら
洲崎 | 源頼朝が船で上陸し、飲み水を求めて矢尻で地面を突いた 矢尻の井戸と源頼朝公上陸地 >> |
源頼朝 |