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矢尻の井戸と源頼朝公上陸地<千葉県館山市>

源平成衰記と義経記が情報元

治承4(1180)年8月23日の石橋山合戦(現・神奈川県)に敗北した源頼朝が船で逃れたのが安房(現・千葉県)
上陸は5日後の治承4年8月28日と云われています。

頼朝が矢で突いて水が湧き出た井戸と共に上陸地の碑が建てられています。

※上陸ついては他の場所の説もあります。

住所
千葉県館山市洲崎
交通
JR館山駅からJRバス「矢尻の井戸前」バス停下車すぐ(館山バス停から45個目)
JRバスは下記ページの[行先:館山駅~城山公園前~西岬~洲の崎~伊戸~南房パラダイス]です。
http://www.jrbuskanto.co.jp/bus_etc/timetable.html

探訪について
自由
探訪目安時間
20分~
お気に入り度
★★★★☆
探訪日
2020/02/16
備考
現地 解説碑より
源は同じ流れぞ岩清水 せき上げてたべ雲の上まで
この地にて賴朝●

源賴朝がこの地 洲﨑に上陸したのは1180年(治承4年)8月28日のことだった。
ときに34才。主従僅かに数人だった。

第56代清和天皇を祖とする清和源氏の嫡流である父・義朝は、1159年(平治元年)の平治の乱に敗れ、賴朝は捉われの身となった。13才の若武者の姿に涙した平清盛の継母・池禅尼の命乞いによって、伊豆の蛭ヶ小島に遠流され、読書と写経三昧の日を送った。

武門の道を去った賴朝も遂に挙兵、石橋山の合戦に大庭景親の軍勢三千騎と戦って敗れこの地に海路逃れ来た。

上陸地については吾妻鏡が鋸南町竜島、源平盛衰記と義経記が洲﨑説をとっているが、私は洲﨑上陸を信ずる。

賴朝主従は上陸したものの飲水がなく、持っていた賴朝の矢尻で自らこの地を一突きするや滾々と湧き出たのがこの矢尻の井戸であると里人は伝える。そしてこの先き洲﨑明神に、目的達成の暁は江戸の神田を寄進するとの願文を奉った。

神田明神の発祥である。土地の豪族安西三郎景益これを迎え、直ちに北上し40余日後の10月6日には2700騎をもって鎌倉入りを果たした。

宇治川の先陣争いの梶原景時の乗馬「磨墨」 、一の谷の鵯越で源義経が乗った「太夫黒」は何れもこの地の産であった。

思えば源家再興の原動力はこの地、安房の●●と安房の●●であったといっても過言ではなかろう。
敢えて私有地を解放し、由緒ある史蹟を供覧していただきたい所以を誌し、観光の一助とする。

昭和53年5月吉日 石井博

反射が…

かなり文字が薄くなっている箇所があり、どう頑張っても読めない箇所は●にしました…
しかし解放されている私有地だったとは!!説明板を読むまで知りませんでした(^^;

おかげ様で頼朝上陸の地に踏み込めました。ありがたいことです。

館山駅からJRバスに乗車「矢尻の井戸前」バス停で下車すると目の前が井戸です!!
目の前

屋根の下でバスの待合所のようになっていて生活に溶け込んでいるように感じました。
雨は凌げる

この建物、平安時代の建て方だそうです。
天井にも注目

建築様式

井戸の中は真っ暗で水があるのか確認出来ず…
頼朝が突いて湧き出た水、気になります!!
蓋がしてある

説明碑は灯籠とともに建てられています。
下記の写真、右側の屋根の下が矢尻の井戸です。
説明

そして、その隣に目をやると「源頼朝公上陸地」の碑が草に囲まれつつ、存在感がありました!!
館山市長のお名前も刻まれています。
市長のお名前も

ただし、車道にでて見るのが正面のようで上の写真は安全を確認して車道から撮りました(^^;)
そこまで交通量が多くないのですが、撮影される際は十分お気をつけください。
草地

後ろに文字があったことには帰宅後気付きました…またいつか確認しに行きます!!
背面

上陸の碑から見た井戸。すぐ隣です。
バス停

記念樹も植えてありました。
大木

木の種類はわかりませんでした( ̄▽ ̄;)
何の木?

ここから徒歩約20分くらいの所に洲崎神社と養老寺があります。
吾妻鏡には上陸後の頼朝が洲崎神社に参拝したと書かれており、養老寺には頼朝ゆかりのある植物があります。

館山市 源頼朝が源氏再興と政子の安産を祈願。箸の代用にした「一本すすき」が植えられている
洲崎神社と養老寺 >>
源頼朝
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