頼朝の馬で、佐々木高綱に与えられ活躍した名馬・池月の銅像。
洗足池公園に頼朝との出会いが伝えられています。
名馬池月の由来
治承4年(1180)源 頼朝が石橋山の合戦に敗れて後、再起して鎌倉へ向かう途中ここ千束郷の大池(今の洗足池)の近く八幡丸の丘に宿営して近隣の味方の参加を待った。
或る月明の夜に何処からか一頭の駿馬が陣営に現われ、そのいななく声は天地を震わすほどであった。家来達がこれを捕えて頼朝に献上した。馬体はたくましくその青毛は、さながら池に映る月光の輝くように美しかった。これを池月と命名し頼朝の乗馬とした。
寿永3年(1184)有名な宇治川の合戦に拝領の名馬池月に佐々木四郎高綱が乗り、磨墨に乗った梶原源太景季と先陣を競い、遂に池月が一番乗りの栄誉に輝いた。と、史書に伝えられている。
ここに名馬池月の銅像を造り、この名馬池月発生の伝承を永く後世に伝えようとするものである。
平成9年10月吉日
社団法人 洗足風致協会
ちなみに平家物語覚一本では池月は「生食(いけずき)」と記され、人間でも馬でも何にでも噛み付くから「生食」という名前になったと書かれています。
また、池月の生誕地は複数説があり、それだけの人気者というか有名人というか、名馬であることが窺い知れますね(^-^)
角度によって強そうに見えたり、愛嬌のある顔に見えたりする銅像です。
公園の案内図にも銅像がありますね♪
銅像付近から見る池。人々の憩いの場になっているようです。
銅像の傍にある千束八幡神社。鳥居の横に池月が京の宇治川で活躍した内容が書かれています。
池月発祥伝説の由来
池月とは「宇治川先陣物語」にある名馬の名である。
治承4年8月(1180)頼朝、相洲石橋山の合戦に敗れて安房に逃れこの地の豪族、千葉常胤(つねたね)、上総介広常(かずさのすけひろつね)等の参向を得、再挙して鎌倉に向ふの途次こゝ千束郷の大池に宿営し八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪の参陣を待つ、折りからの皓月(こうげつ)池水に映るを賞でつる折ふし何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向かって飛来り嘶(いなな)く声、天地をふるはすばかりであった。
郎党之を捕へて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞(たくま)しく青き毛並に白き斑点を浮べ恰も池に映る月影の如くであった為之を池月と命名して自らの料馬とする。
頼朝先に磨墨(するすみ)を得、今またこゝに池月を得たるは之れ征平の軍すでに成るの吉兆として勇気百倍し来れりと云ふ。士卒之を伝へて征旗を高く掲げ歎声やまざりしとか。
当八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と稱するはこの故事による。寿永3年春(1184)頼朝木曽義仲を京師の攻む。義仲宇治、勢田の両橋を徹し河中に乱杭逆茂木を設けて寄手の渡を阻まんとす、この時鎌倉出陣に際し各々頼朝に乞ふて賜りたる名馬二頭の中、梶原景季(かげすえ)は磨墨に、佐々木高綱は池月に打ちまたがり共に先陣を争った。史書に云ふ宇治川先陣争いである。
池月一代の晴れの場所でこの一番乗りの功名が今に至るまで名馬の誉れを伝へてゐる。
この池月の誕生地が当八幡であって即ち池月発祥伝説の起こりである。
古くより里人の間に語り継がれ大井町線の駅名に(今の北千束駅)、又町会名にもなってゐたが、今はない。
遠き治承の昔より光芒すでに八百秋、時代の変遷と共にこの伝説の忘失を惜しみ誌して後世に伝へんとする。
尚、磨墨を葬せし磨墨塚は南馬込に現存する。
氏子青年有志による池月太鼓は即ちこの伝説を太鼓に托したものであり毎年9月の祭日に奉納されてゐる。
池月の
蹄(ひづめ)の音(おと)か
揆(ばち)の冴(さ)え
洗足風致教会
この由来に登場する磨墨。池月と磨墨をめぐって梶原源太景季が佐々木高綱と刺し違えようとした場所が静岡県富士市の「源太坂」です。
↓源太坂についてはこちらをご覧ください↓
https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/genntazaka/
この時代、馬は大変重要な存在でした。こうして名馬の話しが後世に残り、銅像が建てられているんですね。
締めくくりに強そうな角度の池月♪