源頼朝が梶原景季に与え宇治川合戦などで活躍した名馬・磨墨は、この地に葬られたと伝わっています。
塚には景季の甥である景親を守った乳母・隅の方も一緒に供養されています。
※先に興禅寺にお参りしてから磨墨塚史跡公園を訪れるのがオススメ
遊具の顔を望遠で撮ってみると…
愛嬌がありますね。
真っ黒な毛色から「磨墨」と名付けられたのですが、遊具は茶色!!
この公園には茶色の方が馴染んでいますね。
尻尾が滑り台で可愛らしい。朝9時過ぎから子どもたちが元気に遊んでいました。
そして気になるのが遊具の隣の木がこんもりしている所。柵で囲まれています。
反対側に回ってみると隠れ家のような?!
これが「磨墨塚」で中に石塔らしきものが見えます。
略系図作りました。
三世代を確認してから解説板へ。
■磨墨塚
「磨墨」と「池月」という2頭の名馬持っていた源頼朝は、梶原景季(梶原景時の嫡男)に「磨墨」、佐々木高綱に「池月」を与えた。
「磨墨」を有名にしたのは、1184年(寿永3年:平安時代)の宇治川の合戦(木曽義仲との戦い)での、景季と高綱との先陣争いである。
頼朝の死後、鎌倉幕府の内粉で敗れた梶原景時は鎌倉から追放され、京に逃れる途中、駿河国狐崎(現静岡県清水)で息子景季・景高ら肉親、郎党とともに、ことごとく非業の史を遂げた。
この時、鎌倉にいた景高の、一子・豊丸はまだ幼少で、乳母・隅の方の手にあった。
その家族は羽黒にゆかりのある隅の方と七家臣に守られ、「磨墨」を伴ってこの地に落ちのびてきたといわれている。
豊丸はこの地で成人して梶原景親を名乗り、現 興禅寺の付近に館を構え、羽黒城を築城したといわれる。
羽黒城は、以後約380年間にわたって梶原氏の居城として栄えた。
「磨墨」は隅の方が亡くなるのと時を同じくして死に、この地に葬られたと、伝えられている。
こうした伝承を後世に伝えるべく、磨墨塚周辺一帯を「磨墨塚史跡公園」として整備した。
■磨墨にまつわる伝説
磨墨塚より北へ約500m。
名鉄小牧線を挟んだ所に恩田島という地名がある。
ここには恩田森と呼ばれる鎮守の森があり、稲作の神や厄病・厄災除けの神様を祀った恩田社がある。
この地名については、磨墨がこのあたりで死に、馬頭が背負って磨墨塚の所までおぶって運んだという言い伝えから、「おった」がなまって「おんだ(恩田)」となったという伝説が残っている。
また、江戸時代に書かれた『正事記』や『尾張徇行記』には、磨墨を葬った際に目印として塚に植えられた一株の姥桜があったという記述があるが、現在では枯れて残っていない。
という訳で、恩田島の地名は名馬磨墨が倒れた場所から背負ったという伝承によるものだということが分かりました。
案内板に描かれていた地図も載せておきます。磨墨塚は中央のやや右下にある記念碑記号で、恩田島は右上に書かれています。
真ん中に「名馬 磨墨塚」その右にはミニ磨墨!!
ミニ磨墨がいることに感動。なかなか勇ましいですね。
景高の子・豊丸(後の景親)の乳母も。
また、徒歩約4分の興禅寺には磨墨や隅の方がこの地へやってきた時の彫刻が境内で見ることができます。
羽黒字城屋敷 | 承安4年(1174年)に梶原景時が創建 興禅寺 >> |
梶原景時 |
800年以上も前に活躍した一頭の馬がこうして祀られていることに胸が熱くなりませんか?