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興禅寺<愛知県犬山市>

梶原一族の墓所

梶原景時が開山した興禅寺には梶原一族の五輪塔や景時夫婦供養塔があり、この羽黒の地には梶原景時公顕彰会が30年以上前に発足、様々な活動をされています。

境内

解説板より
■妙国山 興禅寺
当寺の開山は1174年(承安4年:平安時代)梶原景時によって真言宗光善寺を創建されたのが始まりといわれている。

1476年(文明11年:室町時代)梶原景綱によって臨済宗妙心寺派 興禅寺と改めて再興された。

1584年(天正12年:安土桃山時代)小牧・長久手の戦いの前哨戦 羽黒合戦による戦火ですべて焼失し、廃寺同然になった。

1602年(慶長7年:江戸時代)犬山城主小笠原吉次の寄進により、梶原屋敷跡であった現在地に再興され現在に至っている。

(中略)

みどころ
○墓地
景時夫婦供養塔・梶原一族五輪塔・当山中興の祖供養塔。
梶原城古梅(神奈川県寒川町梶原公顕彰会寄贈)

○境内
入鹿切れ流れ岩(本堂前)この岩は入鹿切れの際、羽黒桜海道まで流されてきた大岩で、当時の洪水の凄さを後世に残すものとして安置されたものである。

北向き地蔵尊 入鹿切れによる犠牲者を供養するもの。
薄墨桜(庫裡前)・十月桜(本堂前)・椿桜(東門前)など。

贈 興禅寺・梶原景時公顕彰会
  羽黒地区コミュニティ推進協議会

■羽黒と梶原氏
梶原景時は平安時代後期から鎌倉時代にかけて、活躍した武将で、1180年(治承4年:平安時代)石橋山の戦いで敗れた源頼朝を救い、後に鎌倉幕府の重臣となった人物である。

羽黒と梶原景時との出会いは、景時が平忠盛(清盛の父)の目代(国主の代理)として、尾張国府に下向赴任し、羽黒下大日に真言宗 光善寺(興禅寺の前身)を建立したことから始まる。

源頼朝の死後、1200年(正治2年:鎌倉時代)北条一門との政争に敗れ、京に向かう途中の狐崎(現・静岡県清水)で景時一族は非業の最期を遂げた。

景時の次男 景高の子・豊丸は乳母・隅の方と七家臣に護られ、名馬磨墨と共に隅の方の里である羽黒へ落ちのびてきた。

豊丸は成人し梶原景親と改め、現・興禅寺に館を構えてより、次第にこの地方の豪族として勢力を蓄えていき、17代景義になって、羽黒3000石の領主として織田信長に仕えるまでになったが、1582年(天正10年)本能寺の変で殉死、羽黒 梶原氏は断絶した。

しかし、羽黒を治めていた約380年間には、鋳物師集団の誘致、興禅寺の再興、七家臣にまつわる『山姥物語』や山内一豊の生母 法秀院の出生などがあり、七家臣の末流は今なお営みが続けられ、その歴史を受け継いでいる。

羽黒には梶原景時公顕彰会があり、2012年(平成24年)には結成25周年を迎える。

他の地区でも顕彰会が結成されており、その活動によって、これまで悪人とされてきた梶原景時が、近年になって人間味のある素晴らしい武将であったと、再評価されるようになってきた。

梶原景時の創建
※これは東側の参道にあります。

みどころとして解説に書かれている梶原一族五輪塔、古梅。
墓所がみどころの一つとは……
景時景時、景義の墓

一般の方の墓石も写るため正面からの写真は載せられませんが、景時夫婦供養塔や中興の祖の供養塔が分かるようになされています。
五輪塔の数々

正月二十日が命日

古梅

豊丸(景親)が乳母に守られながら磨墨たちと移住してきたときのイメージ彫刻を本堂前で見ることが出来ます。
磨墨のことも

彫刻

↓参考に景時~景高~景親の略系図を作りました
梶原景時系図

その他、境内のみどころとして紹介されている入鹿切れ流れ岩と薄墨桜の写真も載せておきます。
入鹿切れと呼ばれる入鹿池の決壊で1000人以上の方が亡くなった時に流れてきた石だそうです。
洪水の凄さを物語る

入鹿切れ流石

6月なので当然桜は咲いていませんでした。
薄墨桜

個人的には東側にある「興禅寺のヨノキ」の存在感が好きなので紹介しておきます。
樹齢300年

ムク

「梶原忌」当日に発行されている会報誌「かじわら」も置いてありました。梶原忌も興禅寺で執り行われているようです。
梶原景時公顕彰会

↓「Web版かじわら」に過去の様子が掲載されています↓
http://kajiwara.blog16.jp/

いつの日か「梶原忌」に参列できる機会があれば報告しますね。
正面

住所
愛知県犬山市大字羽黒字城屋敷16
交通
名鉄「羽黒」駅から徒歩10分
※参拝後は磨墨塚史跡公園へ行くのがオススメ

参拝について
境内自由
参拝目安時間
30分~
お気に入り度
★★★★☆
参拝日
2019/06/23
備考
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