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若宮神社<京都府亀岡市>

義経

寿永3年(1184)1月、京を出発した源範頼軍、義経軍は山陽道と丹波路に分かれ、平家が陣を置く一ノ谷へ向かいました。

丹波路を進軍する義経たちは途中、京都府亀岡市の若宮神社で休憩をとりました。
義経の腰掛岩がこれです。
苔

先ず向かったのは義経の腰掛石。矢印の方向へ。
趣きある

川

解説板より
■若宮神社

当神社の創建は、奈良時代の景雲3年とされ、多気神社として鎮祭されるも、その後社運の消長があり、南北朝の嘉慶元年9月に再建され若宮神社と改称された。

祭神は窮乏の民に3年の徴貢を免じた大鷦鷯命(:おおささぎのみこと:仁徳天皇)で昔より安産の守護神とされ八幡信仰等で若宮八幡宮と呼ばれた事もある。

左右の小社は地主彌勒尊と六孫王経基公である。

真下を走る旧篠山街道は寿永3年2月1日、一の谷の戦に向う義経が通った腰掛岩がある。

本殿は再建当時の流れ造りで内陣天井裏の桁に約六百年前の龍が画がかれている。 例祭は毎年8月と10月で奇祭佐伯灯篭は平安時代より続いている。

井出山の地名が知るす如く井泉は若宮さんの御香水と言って薬餌と甘露の水で知られる。

住宅街の奥

※補足※
小社に祀られている「六孫王経基公」は清和天皇の孫で清和源氏の祖となった源経基:みなもとのつねもと:

父が清和天皇の第6皇子である貞純親王:さだずみしんのう:であるため『六孫王:ろくそんのう:』と呼ばれていました。

気になったので川の方へ下りてみました。
禊?

神秘的

元の道に戻って1本道を約百メートル進みます。
ベンチ?

捕まえろ

この罠が平安末期に仕掛けられていて義経が罠にかかっていれば、一ノ谷合戦で平家が大敗することもなかったのに……(#`д´)

到着。
平家物語によると2日かかる道のりを1日で三草山(兵庫県加東市)に到着したとされています。
これは誇張表現かもしれませんが、義経、休憩している時間あったのか…
全体

逆光がいい感じ

解説板より
■源義経腰掛岩

この岩の前面を通る道が篠山街道(旧山陰道)で、寿永3年(1184)京から丹波を経て一の谷へ向かう源九郎義経が最初に休んだのが源氏と縁が深いこの佐伯出山の地といわれ、義経が腰を掛けたこの岩を「義経の腰掛岩」と呼び伝えている。

また、この岩から100m西にある若宮神社に必勝を祈願した時、寒風が絵馬をたたきカチカチと音がし、つわものどもが誰言うことなく、勝ち勝ちと神のお告げと勇躍一の谷に進んだと伝えられている。

この丹波亀岡の地は源氏に由縁深く源三位頼政が宮中の鵺を退治して恩賞として拝領したのが矢田(矢代)の庄と言われ、以仁王を奉じ兵を挙げ敗れ宇治平等院で自害の後、その遺骸を葬ったのが頼政塚と伝えられる。
これには当地佐伯神蔵寺の僧徒も大津三井寺と呼応して兵を挙げたと言われる。

また、一の谷へ向かう途中、那須与一が急病にかかり矢田の法楽寺の阿弥陀如来に祈願し、たちまち平癒、屋島合戦で名をあげたことから与一の加護をうけ改修再興したといわれる与一堂がある。

この亀岡の地は源平合戦の壮大なドラマに大きな役割を果たしてきた。

歴史を回顧する時、祇園精舎の鐘の声で始まる源平物語は涙を誘う。

腰掛

※文中の神蔵寺、那須与市堂はこちら(頼政塚は準備中)

下矢田町 那須与一の急病が祈願により快復
那須与市堂 >>
那須与一
稗田野町 源頼政と以仁王の挙兵に応じたため平家に寺領を没収
神藏寺 >>
源頼政
源頼光

若宮神社から
神蔵寺へは北側の道路を迂回して約2km、那須与市堂は東へ5~6km

義経が戦勝祈願をしたという本殿?へ。
右から

左から

最初に載せた由緒の「左右の小社は地主彌勒尊と六孫王経基公である。」
下記のどちらかに源経基が祀られているのでしょう。
パシャリ

これも

住所
京都府亀岡市稗田野町佐伯出山地
交通
①JR「亀岡」駅南口から京阪京都交通バス40系統に乗車約20分、「国道佐伯」バス停下車、南へ徒歩10分 
②亀岡駅などからレンタサイクルが便利です。
亀岡市観光協会ホームページ↓
https://www.kameoka.info/charm/rentalbicycle/

神社への道はここ
参道

参拝について
自由
参拝目安時間
15分~
お気に入り度
★★★★☆
参拝日
2017/04/04
備考
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