平治元年12月、源義朝たちは平治の乱に敗北。
東国を目指す途中で知多半島の長田忠致の屋敷を目指します。義朝に仕える鎌田正家の妻の実家です。
先ずは内海に上陸し、このページの源義朝の路を通って北上します。
義朝上陸の地については下記にまとめました↓
https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/yoshitomo-jyouriku/
住宅街のY字路に説明板が建てられています。


1159年 平治元年 京都六波羅の合戦、世に云う平治の乱に、源義朝は平清盛に敗れ東国に落延びるため、重臣の鎌田兵衛正清の妻の父親・長田忠致:おさだただちか:が庄司を勤める野間内海庄へ向かって左馬頭殿(義朝)・平賀四郎・鎌田兵衛正清・金王丸に鷲栖玄光の一行5名は柴を運ぶ小さな小船で岐阜大垣の杭瀬川から揖斐川を下り、伊吹降ろしの西風が吹く伊勢湾を渡り、平治元年(1159年)12月28日野間の南、内海字西座頭畑辺りの海岸に上陸後、野間の長田忠致の館を目指してここから山越えをした。
この源義朝の通った路は内海地区の伝説として既に当地に定着し、路線の一部は名鉄の南知多ハイキングコースとして、野間駅~野間大坊~内海秋葉神社内海駅のルートに取り込まれているが「義朝の路」を明確にするため今回現地への道標を設置した。
源義朝の内海上陸の地は諸説ある中で、地形からも言い伝えからも字西座頭畑(内海新港の西)の砂浜に、旧内海漁協の漁場管理看板の柱が残って居りその柱に源義朝公上陸の地を表示した。
上陸後、義朝の一行は字柴井、現在のなみおかGS駐車場の東隅に、小池脇又は小息脇と言い伝えられている場所(B)当時は小さな池があり池の水で喉を潤し、岡部の里(C)に入り東御所奥から山道(DEFG)を登り超えて、野間の内扇:うとげ:(H)へ向かった。
そこで現在定着している名鉄南知多ハイキングコース(青色)と、義朝の路(赤色)を重ね合わせると、即ちF地点とG地点の間約300mが義朝の路に重なり、このG地点には石柱の道標があり、「右大の道 左のま道」ときざまれている。
何時頃建てられたかは定かではないが、知多半島要衝の地であった大野城と内海の一色城・岡部城(内海城)内海佐治氏の時代、1400年代ではないかと推測される。
この頃に、現在の野間の内扇の地名の謂れとして大野から内海へ至る道程でこの先、内海の扇松(遠目に扇形大松)を目指したこの地を「内扇:うとげ:」とされたと推測される。
この内扇から扇松への道は平成4年(1992年)4月に南愛知カントリークラブが開設され古道は遮断されたがゴルフ場に沿って東廻りで、山路を辿れば前述のG地点石柱の道標へ通じます。
そして現在はG地点から、のま路を峰伝いに西に向かいゴルフ場の赤い歩道橋二カ所を最後に名鉄知多新線の歩道橋を渡り、やがて開けた田園に出て、野間の瑞境寺前からその先が野間大坊へ、又G地点を東に辿れば、内海秋葉神社から扇松を経て下れば持宝院、そして内海駅へ通じます。
内海・山海まちづくり協議会「きずなの会」
地域文化イベント部会 古道史跡班



義朝の路へ続く道路は舗装されていますが、住宅街から急に山の中へ吸い込まれるようなイメージです。




そして途中で右手に見えてくるのが大岩です。
上記の写真の道から見下ろすだけで近づくことはできなさそうです。


角度を変えると「大岩」の文字がはっきり見えます。

更に進むと舗装されていない道が分かれている上に、本格的な登山になりそうなのでここまでで引き返しました。
いつかこの先へも進めればいいのですが。

大岩