都落ちした平家が安徳天皇の仮の御所としたのがこの柳の御所。
また都落ちした寿永2年(1183)、9月13日の夜にここで歌宴を開きました。平家5名の歌が境内で紹介されています。
①都なる 九重の内 恋しくは 柳の御所を 立寄りてみよ
薩摩守 忠度
②君住まは ここも雲井の 月なるを なほ恋しきは 都なりけり
大納言 時忠
③分けてきし 野辺の露とも 消へずして 思はぬ里の 月をみるかな
経正卿
④君住めば ここも雲井の 月なるを なお恋しきは 都なりけり
時忠卿
⑤打解けて 寝られざりけり 楫枕 今宵の月の 行方清むまで
大臣殿 宗盛
⑥月を見し 去年の今宵の 友のみや 都に我を 思ひ出づらむ
薩摩守 忠度
⑦恋しとよ 去年の今宵の 終夜 月みる友の 思ひ出られて
修理大夫 経盛
※②と④の時忠の歌は微妙に違う…そして忠度は藤原俊成に歌を習っていたこともあり、①と⑥の2首あります
解説板より
寿永2年(1183)木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西に逃れ、太宰府に落ちていった。
しかし、ここでも、豊後の豪族・緒方三郎惟義(これよし)が攻め寄せると聞いて、さらに遠賀郡山鹿の城を経て、豊前国柳が浦にたどりついた。
この柳が浦が現在の大里のことで、古い記録に「内裏」と書かれているのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。
寿永2年(1183)木曽義仲に都を追われた平家一門は、安徳天皇を奉じて西に逃れ、太宰府に落ちていった。
しかし、ここでも、豊後の豪族・緒方三郎惟義(これよし)が攻め寄せると聞いて、さらに遠賀郡山鹿の城を経て、豊前国柳が浦にたどりついた。
この柳が浦が現在の大里のことで、古い記録に「内裏」と書かれているのは、しばらくの間、仮の御所があったからである。
現在、戸上神社のお旅所となっているこの地がむかしの仮御所の跡であろうと伝えられて「柳の御所」と呼ばれている。
境内の歌碑は栄華を極めた都の生活をしのんで平家の公達が詠じた歌である。
都なる 九重の内 恋しくは
柳の御所を 立寄りてみよ
薩摩守 忠度
君住まは ここも雲井の 月なるを
なほ恋しきは 都なりけり
大納言 時忠
参考文献 平家物語(応永書写延慶本)
北九州市 北九州市教育委員会
歌が紹介されている忠度、経盛、経正、宗盛、時忠は太字にしました。
2015年7月に訪れた時は「平家」と書かれた幟がありました(^^)/
歌の横には安徳天皇の御所だったことを示す碑が。
安徳帝柳御所旧趾
参拝中、地元の方?が数人お参りされていましたが見慣れているのか、平家の歌があるところには一人も来られずでした(^^;
キリメンさまの石室
鳥居の近くには小さな祠?があり、これも気になることが書かれています。
木像は移された?
「柳御所」バス停に御所神社前交差点。
柳の御所はJR門司駅から徒歩約13分ですので、お時間ある時に散策も兼ねてお参りはいかがでしょうか?
住所
福岡県北九州市門司区大里戸ノ上1-11
交通
JR門司駅より北東へ徒歩13分
参拝について
自由
参拝目安時間
15分~
お気に入り度
★★★★☆
参拝日
2015/09/06、2019/03/23
備考
-
行く末を案じて入水した清経のことも。清経が入水したと伝わる場所は福岡県と大分県2か所に存在します。