
「たいまでら」と読みます。
治承4(1180)年12月28日、奈良の東大寺の大仏が焼け落ちたことで有名な「南都焼討」
平家軍の総大将は平重衡。東大寺や興福寺の僧兵との戦いが長引き、灯りをとるための炎が強風に煽られ燃え広がり、南都一帯が焼けてしまいました。
同年5月に以仁王と源頼政が平家打倒に立ち上がった当時は、以仁王を匿った興福寺の末寺でした。
東大寺から当麻寺まで30km弱離れており、当麻寺へは平家の別働隊が攻め入ったと伝わります。
仁王門から入り少し歩くと正面が現在の本堂の左手(南)が金堂、右手(北)が講堂があり、當麻寺公式ホームページによると南都焼討で金堂が大破、講堂が全焼。
※追記※
金堂の5体ある仏像の中で多聞天だけ時代が鎌倉時代になっている理由は南都焼討が関係しています。
燃え移るかもしれないため急いで仏像は運び出されたそうですが、運んでいる人が命を狙われる危険が多く、多聞天はバラバラになり修復不可に。
のちに新しく作られたのですが、その時代の仏師は筋肉隆々のが得意(時代の流行り)だったので、その時代によく見られる風体になったそうです。金堂は寿永3年(1184)には再建。一ノ谷合戦が行われ重衡が生け捕りにされた年ですね。
講堂は全焼し、乾元2(1303)年に再建されました。
仏像は藤原、弘仁、鎌倉時代の作だそうです。
また、本堂の須弥壇は源頼朝の寄進で、いただいた案内には銘文1243年となっています。
頼朝の没年は建久10年(1199)なので寄進してから40年以上経ってからの完成した時の銘文ということでしょうか??
また、創建当初は南側に正面で金堂が本堂でしたが平安中期ころに曼陀羅思考が流行り、曼陀羅が置かれていた堂が本堂へと変わり、東側に仁王門があります。
南都焼討と当麻寺の関係については下記の公式ホームページに記載されています。
中之坊と伽藍堂塔
ページ中央より少し上に南都焼討ことや頼朝再建のことが書かれています
http://www.taimadera.org/history/p4.html
西南院
ページ中央の重要文化財の金堂に平重衡の南都焼討のことが書かれています
https://taimadera-sainain.or.jp/當麻寺のご紹介
南都焼討のことは現地ではみかけませんでした。
平重衡は約4年後の一ノ谷合戦で生け捕りにされ、鎌倉に送られた後は、南都の僧たちの要望により引き渡され仏敵として斬首されました。
重衡は容姿が美しく歌も音楽も得意、鎌倉では牡丹の花に例えられたそうです。
そんな當麻寺では4月中旬~5月初めの牡丹園も人気の1つです。
ぼたん園は4か所、それぞれに拝観料が必要になります。
・中之坊
・護念院
・西南院
・奥院
奥院の宝物館では平重衡が法然上人に贈った硯を拝観することができます。
2021年4月18日の写真です。ご参考にどうぞ。
【中之坊】
受付及び出口付近が牡丹が多く、見事でした。
個人的には白い藤の花もおすすめです。
松尾芭蕉の歌碑はここにも。
季節が違うため咲いていませんでしたが中将姫ゆかりの桜も。
【奥院】
奥院は平重衡に授戒した法然上人ゆかりの地です。
京の知恩院から法然上人像を遷座しました。
平家物語によると重衡は受戒のお礼に法然上人に松蔭硯:まつかげのすずり:を送りました。
その硯は奥院の宝物館に展示されています。
後述の牡丹園は季節限定ですが、宝物館は通年拝観可能です。
↓宝物館
さて、牡丹園について。その年により期間は若干変動するようです。
牡丹の花ではありませんが、蝶も。
また、御影堂:みえどう:の特別公開では法然上人像を拝むこともできます。
奥の院付近から西塔と東塔を見れる場所があります。創建時から現存するのは當麻寺だけだと拝観パンフレットに書いてありました。すごいですね。
見どころ多数の當麻寺。
季節を変えてまた訪れたい場所です。
参道のマンホール