忠海:ただのうみ:は平忠盛(平清盛の父)の名が由来となっています。
■竹原市と平清盛のつながり
“忠海町”の名前の由来
平忠盛(清盛に父)が1135年(保延元年)日宋貿易の航路である瀬戸内海の、忠海沖(当時「浦」)で海賊を捕らえた功績として、忠盛の二文字を分け、「浦」を忠海と、対岸の島である大三島を盛村と名づけたと伝えられている。
※大三島は大山祇神社がある愛媛県今治市
武士である忠盛がどのように勢力を伸ばし、天皇や上皇に気に入られるようになったかを伝える逸話は複数伝わっています。
その1つが平家物語覚一本 一巻の「殿上闇討」です。
鳥羽上皇勅願の得長寿院を建立、献上した褒賞として国守が欠員となっていた但馬守に任じられ、さらに清涼殿の殿上間に昇ることを許されました。
忠盛36歳、備前守だった時です。
天承元年(1131)または天承2年(1132)の3月13日ころとされています。
※複数説があります
清涼殿は天皇の生活の場所で、身分の低い武士などは入れないのはこの当時の習わしでした。
もともとの殿上人たちはこれを良しとせず同じ年の11月23日の五節豊明:ごせつとよのあかり:での節会:せつえ:で闇討ちにしようと密議が行われていました。
どのようにして忠盛がこのことを知ったのか、鞘巻を束帯の下に差し他の人に見えるように刀を抜きました。
また、郎等の佐兵衛尉 平家貞:さひょうえのじょう たいらいえさだ:が庭に控えていたことから闇討ちこそ行われませんでしたがそれでも他の殿上人たちは臆せず舞を舞う忠盛を「伊勢平氏は眇である」(伊勢の瓶子は酢がめ)だとからかったのでした。
伊勢産の瓶子は酢がめに使われていたこととかけて伊勢で誕生した忠盛を
三重県津市には忠盛の産湯池も現在に伝わっています。
産品 | 平忠盛の産湯池があり、平氏発祥と伝わる 平氏発祥伝説地(忠盛塚) >> |
平忠盛 |
いたたまれなくなり、持ち込んだ鞘巻を主殿司:とものづかさ:に預けそっと抜け出した忠盛に「いかがでしたか」と問う、庭で控えていた家貞。
からかわれたことを知ると家貞が乗り込んで行ってしまうと判断した忠盛は特に何もと答えその日はこれで終わりました。
しかし後日、刀を持ち込んだことや郎等が庭に控えていたことを問いただされると、最近不穏な噂があり忠盛に知られぬように控えていたことや、刀は主殿司:とものづかさ:に預けてあるので調べるように伝えました。
刀は木刀に銀箔を貼ったものであり、刀を帯びているようにみせかけ自分の身を守ったことも、郎等が主を護衛するのは当然だと賞賛を受けました。
忠盛の冷静な判断が事件を防いだのでした。
その他、祇園女御の下へ通う白河院のお供をしたいたときの話しはこちら
東山区 | 入口に祇園女御供養塔、内部には祇園女御を祀るものが様々 祇園堂 >> |
祇園女御 |
海賊討伐なら忠盛は船の上から海を見る機会が多かったのでしょう。
駅近くを散策するだけでも十分海を見渡せます。
また、駅近くには「忠海」の酒が販売されているお店が何箇所かあります。
コンビニにも置いてありました。お土産にいかがでしょうか。
忠海を高い位置から見るなら駅から北の方角にある黒滝山へ。
↓黒滝山については下記の「ひろしま竹原観光ナビ」サイトを参考↓
https://www.takeharakankou.jp/spot/4316
この日は時間の関係で黒滝山麓の忠海中学校北側の道までしか登れませんでしたが、海が見渡せました!
下記写真の辺りから撮りました。
忠海からフェリーで行けるうさぎの島(大久野島)。
いつか忠海と夕陽の写真を撮りたいと思っていて、その時にこのうさぎの島に行くのも目標の1つ🐰🐰
駅にもうさぎが描かれています。
↓うさぎの島サイト↓フェリーの時刻表なども
http://rabbit-island.info/
海が見渡せる黒滝山方面へ向かう場合は往復数時間
東へ徒歩20分ほどの平清盛ゆかりの耳なし地蔵もおすすめです。
忠海東町 | 平清盛が娘・徳子の安産祈願のために作らせたが完成前に… 耳なし地蔵 >> |
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