俊寛:しゅんかん:は平家打倒の密議をした鹿ヶ谷にあった山荘を提供した僧です。
密告によりこの密議が平家の知るところとなり、鬼界ヶ島に流された俊寛は、平家物語によると鬼界ヶ島で最期を迎えたとされていますがこの地では弟子の有王:ありおう:に連れ戻されたとされています。
■俊寛塚
有名な「鹿ヶ谷の陰謀」(治承元年1177)に組した俊寛僧都●●●鬼界島:きかいがしま:に流罪。
遂に許されることはなかったが、弟子の有王によってひそかに連れもどされ、その晩年をこの地ですごしたと江戸時代の南都案内書「奈良名所八重桜」や「大和名所図会」に伝えられる。
その伝承によって古くからこの地は鬼界島あるいは俊寛●辻とよばれ、標石「俊寛塚」が建てられて南都名所図の1つに数えられることになったものである。
俊寛僧都が幼少より興福寺興善院:こうぜんいん:で勉学し後に京都の法勝寺:ほっしょうじ:に住することになった大縁から、中世以降このような伝承を生んだものと考える。
拡大して文字起こししましたが一部は読み取れませんでした…
鹿ヶ谷事件については下記ページをご覧ください。
鹿ケ谷下宮ノ前町 | 鹿ヶ谷事件の名前の由来となった場所 鹿ヶ谷と此奥俊寛山荘地碑 >> |
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場所は下記の地図通り老舗料亭やホテルが立ち並ぶ付近の細い通路の角で目立たず、観光客はほぼ通らない道です。何度も興福寺や猿沢池付近を通ったことがあるのに俊寛塚について全く知らずにおりましたが、なむさいじょうさん(http://namusaijo.blog.fc2.com/)に教えていただきました。
北西方向に興福寺五重塔が見える場所で夏はかなり植物が生い茂っています。
解説も隠れてしまっていますが、聞いたところによると定期的に草刈りをされているそうです。タイミングがあえば読みやすい状態のときに出会えそうです。
比較に冬の写真。かなり見通しがよいです。
黒い柵の先が俊寛塚です。
史実かどうかは別として奈良散策の際にこの俊寛塚もいかがでしょうか。
また、俊寛の娘は12歳で尼となり奈良市の法華寺(尼寺)に入ったそうです。
何かと奈良とゆかりがあるようです。
②JR「奈良」駅から東へ徒歩23分