現在のぺージ
Home > 俊寛 > 鹿ヶ谷と俊寛の山荘<京都府京都市>

鹿ヶ谷と俊寛の山荘<京都府京都市>

1177年5月29日の夜遅くに発覚した、『鹿ヶ谷事件』と呼ばれる平家打倒の計画は法勝寺の僧・俊寛(しゅんかん)の山荘で行われました。

ししがたにとおり
この標識は鹿ヶ谷通と丸太町通が交わる京都府京都市左京区鹿ケ谷下宮ノ前町にあります。

交通
①京都市バス「東天王町」バス停から徒歩5分
②京都市営地下鉄「蹴上」駅から徒歩20分

拡大地図では「35.017221, 135.793479」

鹿ヶ谷事件って?

保元の乱・平治の乱以降、勢力を増す平家に不満を持つ人々が、酒を飲みながら平家打倒を企てていたと云われる会合。

藤原成親が熱望した左大将の座が平家のものになったこと(上賀茂神社のページをご参照ください → https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/kamigamojinjya/)や、武士である平清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内し、中宮となったことで不満が高まっていました。
※武士は身分が低く、その娘が中宮になるとは考えられない時代背景がありました。

この会合には近江中将入道蓮浄、俊寛、山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、藤原成親、後白河法皇など多数の人々が参加していました。
ある時、藤原成親が酒を入れる瓶子を倒してしまい、瓶子と平氏をひっかけて
「平氏(瓶子)が倒れました」
「それをいかが致しましょう?」
「頸を取ってしまうのがよろしい」
などと平家の悪口を言い合ったりしていたと、平家物語覚一本で描かれています。

そしてこの計画を杜撰だと感じた多田行綱:ただのゆきつな:により平家に密告され、首謀者たちは捕らえられ流罪や死罪となりました。

山荘を提供した俊寛の他、藤原成経、平康頼の3人は鬼界ヶ島(鹿児島の硫黄島が有力候補地)に流され、捕らえられた西光:さいこう:は平清盛と対面したときに罵声を浴びせたため口を割かれ最期を迎えるなど平清盛の怒りは凄まじかったようです。

俊寛の山荘へ続く道

俊寛の山荘があったと伝わる場所には現在、碑が建てられています。
前述の鹿ヶ谷通りの標識から北東に徒歩約5分、霊鑑寺の南側の道端に、「此奥 俊寛山荘地」と書かれている石碑があり、ここから山道を含む徒歩約30分の場所にあるそうです。
※この山荘は信西の息子で後白河法皇の側近の僧・静憲(じょうけん)法印のものだという説もあります。

俊寛の山荘へ続く道の案内

山道を1人で歩く勇気がないので、一度以上お会いした方で一緒に行って下さる方募集(笑)
鬱蒼としていて密議にはもってこいの場所だったことが想像できます。
鹿ヶ谷の山荘はいつの日か探訪したらアップします!!

次回、俊寛の居住地に続きます。

Share
Top