勉強熱心な藤原頼長は「日本一の大学生(だいがくしょう)」と称され、規律に厳しく「悪佐府(あくさふ)」と呼ばれましたが保元の乱で敗北、落命しました。
※終焉の地は現在の奈良、南都付近で般若寺境内には供養塔が建てられています。
相国寺の頼長の墓
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書籍『源義経と源平の京都』(ユニプラン)によると藤原頼長の塚(墓)は1900年代初期まで南東方向に3km強離れた(現在の京大熊野寮付近)場所にあり、塚には桜が植えられていたことから桜塚と呼ばれていましたが町の発展、変化とともに石碑のみが相国寺に移転したそうです。
保元元年(1156)7月10日、崇徳院側と→後白河天皇側が対立したのが保元の乱です。
保元の乱の背景には摂関家も大きく関わっていました。
藤原忠実、頼長(父と次男)→崇徳院側
藤原忠通(長男)→後白河天皇側
(忠実は次男頼長を溺愛していた)
藤原忠通は跡継ぎに恵まれず、弟の頼長を養子にし跡継ぎとすることにしていましたが忠通に待望の息子が生れるとこの約束を破りました。
また、忠通と頼長はそれぞれの養女を近衛天皇に入内させたことも対立の要因でした。
近衛天皇の死が藤原忠実、頼長の呪詛のよるものという噂が信じられ、頼長は近衛天皇の父・鳥羽法皇から疎まれるようになりました。
鳥羽法皇の子供として生まれた崇徳院は実の父が鳥羽法皇ではないとされ、鳥羽法皇から忌み嫌われていたこともあり頼長と手を組み保元の乱に臨みましたが敗北。
頼長は左耳のあたりから首に矢が刺さりながらもなんとか、南都に逃れていた父・忠実のもとを尋ねました。
しかし敗者となった頼長は拒絶され7月14日に落命。奈良に葬られ7月21日には生死確認にため墓が暴かれるという事態になりました。
参考書籍:保元物語、平清盛の真実(朝日新聞出版)
奈良市の般若寺の頼長供養塔についてはこちら
↓ページ中央付近
https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/hannyaji/
特に説明板もありませんが、頼長の墓のすぐ側にはこの3人の墓も建てられています。
藤原定家は平安時代末期の歌人。
父の藤原俊成も歌人で平忠度が師事を受けていました。
駅から近い参道。
とても広いです。
警備員さんと思われる方にお墓の場所を尋ねると丁寧に教えていただけました。
今出川駅から北へ、同志社大学今出川キャンパス前には下記の説明板も設置されています。