温泉で有名な有馬には平清盛公の入湯の記録はないものの清盛塔が存在しています。
この二基の五輪塔は鎌倉中・後期作の石造文化財だが、元禄14(1701)年の『摂陽群談』は「平相国清盛塔」と「慈信坊尊恵塔」だと記し、ともに平清盛が有馬温泉に滞在した時に建立したものだと説明している。
『平家物語』『古今著聞集』『温泉寺縁起』などによると、慈信坊尊恵は承安年間(1171~75)に清澄寺(現、宝塚市)に住んでいた時、幾度も閻魔大王に招かれてあの世に赴いたと伝えられている。
閻魔の庁で大和田泊での清盛主催の千僧供養が話題になった時、閻魔大王は清盛を平安中期の良源(元三大師)の生まれ変わりだと尊恵に教えた。
尊恵は後にそのことを清盛に話し、清盛が喜んだこと。また閻魔は尊恵に法華経を五重の箱に入れて閻魔王府の東門に当る聖地有馬の温泉山に納めるように伝えたことなど、尊恵には有馬や清盛に関わる冥府訪問の物語が伝わっている。
歴史的には、平安末期の土砂崩れで有馬温泉は中断し、清盛に関して入湯の記録や伝説はない。
兵庫の清盛塚十三重の石塔建立のように、清盛没後およそ100年のころに供養のために建てられた温泉寺の五輪塔に、尊恵の有馬の伝説が結びついて、江戸前期に『摂陽群談』のいう解説が信じられていたのであろう。
田辺眞人氏 語る
左が平清盛塔、右塔が慈信坊尊恵(じしんぼうそんえ)塔だそうです。
指定年月日 平成13年2月20日
石質 花崗岩
塔高 左塔 241センチメートル、右塔 254センチメートル
造立年代 鎌倉時代中期~後期
左塔は平清盛塔、右塔は慈信坊尊恵(じしんぼうそんえ)の塔と伝えられています。清盛は平安時代末期、大和田泊を修築して日宋貿易を推進し、福原遷都を実行するなど、神戸にゆかりの深い人物です。
尊恵は、清盛と同じ時代の清澄寺(宝塚市、通称・・清荒神(きよしこうじん))の僧で、熱心な法華経信者でした。
尊恵は承安2年(1172)12月、閻魔王の法華経会(え)に招かれ、珍しい見聞をします。
閻魔王と語らっていると、大和田泊の修築に千人の持経者(法華信者)を招いて千僧供養をおこなう清盛のことが話題になりました。
閻魔王は尊恵に「清盛は普通の人ではない。慈恵僧正(天台宗の中興の祖、良源(りょうげん)。通称は元三大師(がんさんだいし))の生まれ変わりだ。毎日三度偈(げ)をとなえて称賛している」と明かしました。
生き返った尊恵はこのことを清盛に伝えると、清盛は大変喜んだとのことです。
また尊恵は閻魔庁に四度招かれましたが、最後の安元元年(1175)には、翌年の法華経会のため如法経(法華経)などを五輪の箱に納めて「日本無双の勝地で閻魔王宮の東門にあたる有馬・温泉山の如法堂」に安置するよう閻魔王から勧められています。
これらは『冥途蘇生記』にもとづいた説話ですが、建長6年(1254)の『古今著聞集』や『平家物語』などにも取り入れられました。
また有馬だけではなく、全国に知られるようになり、実際に経箱が温泉山に納められました。
この説話は変化しながら広がりましたが、評判の最初のピークは、鎌倉時代中期のようです。
本堂前に並ぶ二基の五輪塔は、その時期からほどなく、ゆかりの清盛塔・尊恵塔として、寺や篤信者らによって立てられたのでしょう。
温泉寺は行基が開基。長い歴史がありますね。