源頼政と組んで平家追討の令旨を出した後白河上皇の皇子・以仁王:もちひとおう:。
頼政が宇治橋で戦っている間に、以仁王側についた奈良の興福寺を目指している途中、この地で最期を迎えました。
(以仁王挙兵については高倉宮趾ページにまとめました → https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/takakuranomiyaato/)
100mほど西の道路上にある案内。
以仁王御墓
以仁王は後白河天皇第二皇子にあたり、治承4年(1180)源頼政が、平家追討のために王を擁立しましたが、宇治川合戦に敗れ、奈良へおもむく途中この地の光明山鳥居前で流れ矢に当たって落命。
この悲劇の王を悼んだ里人により墓が築かれたといわれています。
この解説がある交差点には鳥居があったであろうことを示す地名「綺田鳥居」。
以仁王を祀る高倉神社と以仁王の墓は隣接しています。
先にお墓にお参りしました。
平家物語によると、流れ矢にあたり首を取られました。
↑「後白河天皇皇子 以仁王」と刻まれています。
略系図も載せておきます。
次に高倉神社へお参りしました。
以仁王は三条高倉に住んでいたため、「高倉宮」とも呼ばれていました。
高倉神社と以仁王
高倉神社は、平安時代末期(12世紀)の後白河法皇の第二皇子以仁王を祀る神社で、隣接して以仁王の御墓があります。
『平家物語』によると以仁王は、治承4年(1180)に平清盛とその一族の追討を命じる令旨を諸国の源氏勢力にあてて出しました。
このことが露見したため平家に追われた王は、南都の興福寺をたよって都を落ちる途中、この地つまり「光明山寺:こうみょうせんじ:の鳥居の前」で流れ矢に当たって落命されたとあります。
後に王の御霊を祀ったのが、この神社の起こりです。
付近には、王落命の祈りに仏事を営んだとされる阿弥陀寺や、都を落ちる王に従って宇治橋の合戦で活躍した筒井浄妙:つついじょうみょう:の墓と伝える塚(浄妙塚)があります。
なお、現在、以仁王の御墓と浄妙塚は宮内庁管理しています。
右側に写っているのが先述した以仁王の墓です。
平家追討が叶わず無念の最期を遂げた以仁王ですが現在は、住宅に囲まれ周辺には田畑が広がり、寂しくない場所で静かに祀られています。
以仁王の墓と高倉神社は隣接しています。
木津川市観光ガイドも参考になります。
http://0774.or.jp/temple/takakura.html