境内全域が世界文化遺産に登録されている上賀茂神社。
鹿ヶ谷事件に繋がる藤原成親の執拗な祈りが続けられた場所です。
※北山駅は駅構内から屋外に出ずにバス乗り場まで直結。
2017年10月現在
■神社の名称
正式には「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)ですが、通称「上賀茂神社(かみがもじんじゃ)」として皆様に親しまれています。
■神社のはじまり
賀茂別雷神は神代(かみよ)の昔、本殿の後方約2kmにある秀峰「神山(こうやま)」の頂点にある磐座にご降臨になりました。
天武天皇の白鳳6年(678)に神山を拝む形で現在の本殿の基となる建物<遙祭殿(ようさいでん)>が建てられました。
二の鳥居を入った正面にある「立砂(たてすな)は神山を表しており、本殿が無かった時代の祭場のなごりで、当神社の象徴です。
平家物語覚一本によると最初、藤原成親が左大将の座を願って石清水八幡宮で祈ったところ異変がおき、検校を務める匡清法印(きょうせいほういん)という僧が都に知らせたところ、臣下の行動による騒動が起こる前兆という結果がでました。
異変については石清水八幡宮のページへ
→https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/iwashimizuhachimanguu/
当時は占いが重要視されていて、占いの結果が絶対である場合も多くありました。
こんな結果が出たにも関わらず藤原成親は上賀茂神社に7日間続けて参詣、その夜、夢でお告げがありました。
『さくら花 賀茂の河風 うらむなよ 散るをばえこそ とどめざりけれ』
花が散るのをとどめられないように成親の願えも叶えられない、というような意味合いです。
これにも懲りず藤原成親は、聖に神殿の後ろの杉の木の洞に壇をたてさせて荼枳尼天(だきにてん)と呼ばれる夜叉神に心願成就を100日間祈らせようしました。
75日目の時、この杉に落雷があり危うく火事で大参事になるところを神官達が消し止め、聖を追い出そうとしました。
しかし、100日を迎えるまで動こうとしないため、宣旨が出てやっとこの聖を追い出しました。
社務所前から北側に歩くと杉の木が多数生えています。
当時もこんな風景が広がっていたのかもしれませんね。
その向こうに見えるのが、神が降り立った「神山(こうやま)」
少し遠くからの方が綺麗に見ます。
手水舎の水は神山の湧水!
より有難みを感じませんか(^^)?
ここまで執拗に願った成親、これは平家物語の創作ではないかともいわれていますが、昇進を願う人間の心理は800年前から変わらないと思います^^;
成親の願いも空しく、右大将だった重盛公を左大将に、右大将には清盛公の三男・宗盛公が就任しました。
これは全て平家の独断の決定によるものでした。
こうして鹿ヶ谷事件へと発展していきます。
上賀茂神社は桜が有名で、春には色んな種類の桜が咲き、賑わいます。
(2011年4月の写真)
成親が当時、必死に祈っていたこを想像しながら鳥をくぐるのも一興かと思いました( ˘ω˘ )