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城願寺<神奈川県足柄下郡>

土肥実平ゆかりの地

土肥郷の豪族・土肥実平が建立し、土肥一族の菩提寺である城願寺は見どころ多数です。
①土肥実平お手植えのビャクシン
②七騎堂
③土肥一族の墓所
④土肥実平腰掛石、源頼朝腰掛石

土肥実平は源頼朝の挙兵時から一族をあげて頼朝を支え続けた、頼朝にとって重要な人物の一人です。
参道

①土肥実平お手植えの柏槙:ビャクシン:

階段を上ってすぐのところにあるのが、樹齢約900年の大きな木。
この迫力はぜひ現地で実物をご覧ください。
巨木

イブキともビャクシンとも言う木

解説板より
柏槙:びゃくしん: 樹齢約900年(2016年時)
樹高20m
胸高周囲6.4m

持仏堂をこの地に建てた土肥実平の手植えの木と云われています。
源頼朝や土肥実平らが平家討伐の出陣を見守り、石橋山合戦に敗れ山中に逃れた頼朝主従七騎が無事に房総半島へ逃れるのを見守りました。

一時期荒廃した城願寺が復興していくのを見守った歴史の証人ともいうべき大樹。
信頼・友情・恩義を与える「ビャクシンパワー」と云われております。

昭和14年国の天然記念物に指定。

若き日の頼朝と政子

パワースポット

既に終了してしまいましたが、2017年当時は
「トリプルパワースポットお得キャンペーン」
が行われていました。
QRコード

過去の様子はSNSからご覧いただけます。
■お得店紹介サイト
https://add-plan.com/yugawara/?page_id=9

■Twitter
https://twitter.com/yugawaratriplep

■Facebookページ
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このビャクシンの隣にあるのが七騎堂です。
隣接している

②七騎堂

7人を祀る

解説板より
■七騎堂の由来

伊豆に流されて20年間、蟄居の生活を送っていた源頼朝が、源氏再興の旗挙げをしたのが今から約800年の昔、治承4年8月23日である。

頼朝は石橋山(神奈川県片浦村)に陣を布き手勢300騎で平家方の大庭景親軍3000騎と対戦したが衆寡敵せず忽ち潰走して土肥の杉山に逃れ山中の洞窟に身を隠し或は山中の堂宇に難を避くる等、辛じて大庭軍の目を眩まし8月28日に岩村の海岸から漁船に乗って房州に落ち延びたのである。

この時同船したのが頼朝以下主従七騎であったので、世にこれを頼朝七騎落と呼んでいる。

頼朝の決起によって平家が滅び、日本の王朝政治が終りを告げて武家政治の時代が開かれ、ここに日本歴史を転換させた最初の戦が土肥郷(今の小田原から湯河原まで)を舞台として戦われ、しかもこの合戦の参謀として活躍したのが当地(現 湯河原町)に居館を構え、土肥郷を領していた土肥次郎實平であったのである。

吾が郷土の史実研究団体である土肥会に於ては、さきに郷土と縁の深いこの七騎落七武者の像を刻み、土肥氏の菩提寺 城願寺境内に一宇の堂を建立し、ここに安置することになった。
七騎堂即ちこれである。

昭和49年4月吉日
湯河原町 土肥会

船に乗った7人

この話は謡曲にもなっています。

解説板より
■謡曲「七騎落」と城願寺

謡曲「七騎落」は、鎌倉武士社会の忠節と恩愛の境目に立つ親子の情を描いた曲である。

石橋山で敗戦し逃げ落ちる源頼朝主従八騎は、船で房総に向かう事になった。

頼朝は祖父為義・父義朝の先例を思い、八騎の数を忌んで七騎にするよう土肥実平に命じた。
主君の武運を開くために我が子遠平を犠牲にしようと覚悟して下船させたが、折よく沖合いの和田義盛に救われ、歎喜のあまり酒宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。

城願寺は土肥氏の持仏堂跡で、土肥郷主実平、遠平父子がその城館の上の丘に創建し、大鏗禅師の弟子雲林清深が中興開山で、足利時代である。

土肥一族の墓所があり、七騎堂には七騎の木像が収められている。 

謡曲史跡保存会

語り継がれる

ちなみに船に乗れなかった遠平は頼朝の妻・政子にこれまでの経緯を伝えに伊豆に向かいました。

静岡県伊豆山 挙兵し敗北した頼朝の妻・北条政子が避難していた
秋戸郷跡 >>
北条政子
③土肥一族の墓所
由来

解説板より
■神奈川県指定史跡
土肥一族の墓所
昭和30年11月1日指定

城願寺は、土肥次郎実平が菩提寺として建て、室町時代に中興されたと伝えられています。

土肥次郎実平は、源頼朝が石橋山で旗上げした時に従いましたが、頼朝が敗れ、脱出する手助けの際、功績がありました。

その後、木曽義仲、平家及び奥州藤原氏の征討に従軍しましたが、それ以後のことは定かではありません。

城願寺本堂左方の広さが10坪ほどの土肥氏一族の墓所には、66基の墓石があり、嘉元2年(1304)7月の銘のある五層の鎌倉様式の重層塔や、永和元年(1375)6月の銘のある宝筺印塔をはじめ、塔身が球形をした五輪塔などの各種の墓型が揃っています。

このように一墓所に各種の墓型がそろっているのが見られるのは、関東地方ではめずらしく貴重なものです。

◎お願い
この史跡の現状をみだりに変更したり、荒らしたりしないで、大切に保護して下さい。
特に墓石には、絶対に手をふれないようご注意ください。

平成7年9月
湯河原町教育委員会

矢印の方向へ進んでいくと奥まったところに五輪塔が見えてきました。
遠くに

すごい数

大小色々

どれが実平の墓かは下記の通り、現地に解説板が設置されています。

解説板より
土肥一族の墓所

昭和30年11月1日指定 神奈川県指定史跡

源頼朝の平家追討旗挙げの中心となり活躍した土肥次郎実平が、平家滅亡と鎌倉幕府成立の大業を成し遂げたのち、出陣した自分の信仰する持仏堂のあるこの地に、犠牲者の菩提を弔い一族の長久を祈るため城願寺を建て、鎌倉時代中期に一時衰退しましたが、室町時代に中興されたと伝えられています。

実平は、桓武平氏良文流中村宗平(現在の神奈川県中井町)の次男です。

石橋山の戦いで敗れ、失意の頼朝を励まし山中を逃げ延びて房総へ小舟で渡海したのち、富士川の戦い、宇治川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦いと転戦して、下関壇ノ浦で平氏に勝利するまで戦いの連続でした。

その間、惣追捕使として、瀬戸内、山陽山陰・四国地方の統治管理を続けました。

鎌倉幕府成立後、実平は、現在の広島県三原市にある沼田荘に長男の遠平と移住し、この地で亡くなりました。

遺骨は分骨され、三原市米山寺に、さらに鎌倉で将軍頼朝に目通りを終えてから城願寺に葬られ、のちに遠平も沼田荘で亡くなり、同じように城願寺へ葬られたと伝えられています。

実平の墓は、当寺や米山寺以外にも、山形県鶴岡市井岡、静岡市安養寺、小田原市谷津鳳粟院などにもあります。

正面4基が五輪塔。その左右に一つずつ層塔、さらに四角い宝篋印塔:ほうきょういんとう:が左右に続きます。

五輪塔はどれも銘が無く、建立年や施主などは不明ですが、実平が中央、向かって左に実平の妻、中央右が遠平とその妻の供養塔と伝えられています。

昭和27年3月吉日
湯河原町
土肥会 

歴史

土肥実平の名が確認できる

④土肥実平腰掛け石、源頼朝腰掛け石

場所はそれぞれ離れていますが、土肥実平、源頼朝の「腰掛け石」が境内にあります。
参拝の際はぜひ探してみてください。
実平が腰をかけた

伝 頼朝

境内の様子

本堂

縁結び

開運

分かりにくいですが、真ん中の木が土肥実平が植えた柏槙です。
大きな木々

城願寺について

城願寺で販売
城願寺、土肥実平の資料は2種類ありどちらもB5サイズで300円、土肥会発行です。(2017年現在)
・源頼朝 旗挙げ 湯河原の土肥実平
 カラーの絵本仕立てで読みやすいです。
 14頁/平成26年発行
・東国武士の鑑 土肥実平 一族興亡の歴史
 写真、地図つきで土肥実平についてびっしり。より詳しく知りたい方にオススメ。
 30頁/平成28年発行

土肥会発行の小冊子、本は土肥会ホームページから郵送で購入できるようです。
http://www.doisanehira.com/satsusi.html

住所
神奈川県足柄下郡湯河原町城堀252
交通
JR「湯河原」駅から北へ徒歩10分

参拝について
境内自由
参拝目安時間
20分~
お気に入り度
★★★★★
参拝日
2017/08/26
公式ホームページ

湯河原駅前には土肥実平と妻の像が建ち、妻の活躍も解説板に書かれています。
城願寺へ参拝する前にぜひ。
見つめる先は

湯河原町 土肥実平と妻の像
土肥實平公 並 夫人像、土肥氏館趾 >>
土肥実平

↓不定期活動ですが、こちらもお勧め↓

神奈川県湯河原町~真鶴町 土肥実平や源頼朝、湯河原・真鶴の魅力を伝えるボランティア「いざいざ応援団 草萌隊」
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