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土肥實平公 並 夫人像、土肥氏館趾<神奈川県足柄下郡>

治承4(1180)年8月、源頼朝の挙兵時に息子たちと共に出陣、戦い抜いた土肥実平は土肥郷の豪族で、JR湯河原駅前には実平と妻の銅像が建てられています。

土肥実平と妻の銅像と土肥氏邸跡

この銅像、現地で実物を見て気づいたことがありました。
それは……下記に続きます。

住所
神奈川県足柄下郡湯河原町土肥1丁目1
交通
JR湯河原駅前すぐ

探訪について
自由
探訪目安時間
20分~
お気に入り度
★★★★☆
探訪日
2017/08/26
備考
目線の先は…

以前からネット上でこの銅像写真は見ていたのですが、実物を見て気付いたのは、2人の目線…
全体像

実平の目線は…

見上げる妻

そう、見つめ合ってるんですo(*’o’*)o
妻は実平を見ているのは遠目でも分かりましたが、実平の目は冑の影になっていることもあり、遠くを見つめているとばかり思ってました。
現地に行ってみないと分からないことが多数ありますね!

解説板より
由来
土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。

治承4年(1180年)源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを授け、石橋山合戦には、土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍監、追捕使、宿老として多くの功績を残した。
公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。
公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食料を運び消息を伝えるなどその”心さかさかしき”(源平盛衰記)は武人の妻の鑑として後世にまでたたえられている。

ここに源頼朝旗揚げより八百年を迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人に伝えんため、土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、その館趾、御庭平の地にこの銅像を建立したものである。

由良

石橋山合戦と土肥実平

治承4(1180)年、34歳で挙兵した源頼朝。8月23日には石橋山で平家方の大庭景親と合戦。
土肥実平は息子・遠平や弟・宗遠、甥の佐奈田与一義忠たちと戦ったが、頼朝軍は約300騎、対する大庭景親軍は約3000騎の圧倒的な戦力差と雨による援軍の到着遅れで、敗北。
石橋山古戦場の碑

追手が迫る中、源頼朝を守るため目立たないよう少数で行動することを提案し、時には身を潜め、現在の神奈川県真鶴から千葉県鋸南町へ渡るときも船を用意し、とにかく尽力したのが土肥実平。

また、実平の妻が隠れ場所まで食料を運んで支え続け、夫婦揃ってこの人なくしては頼朝の鎌倉入りは達成できなかったであろうと言い切っても過言ではないと思います。
妻の名は不明だそうですが、それが理由で夫婦の銅像が建てられているんですね。

実平の屋敷は現在のJR湯河原駅付近と云われており、銅像とともに解説碑が建てられています。
土肥氏館趾

解説碑より
乾坤一擲
源頼朝が覇業を天下に成したるは治承4年(1180)8月その崛起にあたり湖西における筥根外輪山南麓の嶺溪土肥椙山々中の巌窟など複雑なる地利と此の地の豪族土肥實平等一族竝びに行實坊・永實坊・僧純海など志を源家に寄せたる人の和と天運に依る。
石橋山の挙兵地・山中の合戦場・椙山隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う「ししどの岩屋」)・小道の地蔵堂・安房を指して解纜した眞鶴崎などまさに千載〇期の史跡である
茲に挙兵七百八十年を記念して土肥氏館阯に碑を建立するにあたり文を需めらる仍って誌す。

昭和35年8月23日
神奈川県文化財専門委員 武相学園長 石野瑛

どんな邸だったのか…

駅から徒歩10分の城願寺には土肥一族の墓や実平お手植えの柏槙(びゃくしん)、石橋山合戦で頼朝に付き従った6人と頼朝の像を祀る七騎堂があり、2016年発行の土肥実平の資料も2種類販売されています。
資料は各300円、左の桃色の表紙のは絵本風、右の肌色の表紙のは歴史解説です。
城願寺で販売

毎年4月の第一日曜日には土肥祭・武者パレードも行われ、実平の人気ぶりがうかがえます。
後ろ姿

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