「いまくまのじんじゃ」は後白河上皇が平清盛、平重盛親子に命じて紀州の熊野の新宮、別宮として創建されたそうです。
現在では学校や商店街がある街中に後白河上皇お手植えの樟が大きく枝葉を広げています。
熊野信仰が盛んであった平安後期の永暦元年(1160)、後白河上皇が紀州(現在の和歌山県)熊野の神をこの地にあった仙洞御所法住寺殿:せんとうのごしょほうじゅうじどの:の内に勧請して、当社を創建した。
上皇の命を受けた平清盛は、熊野の土砂や材木を用いて社域や社殿を築き、那智の浜の青白の小石を敷いて霊地熊野を再現したとされる。
皇室の尊崇が厚く、社域は広壮、社殿は荘厳を極めたが、応仁の乱で荒廃し、現本殿(市指定有形文化財)は寛文13年(1673)に聖護院の道寛親王により再建されたものである。
境内の楠の木は、熊野から移植した後白河上皇お手植えの神木といわれ、健康長寿、特に腹を守護する神、また、安産の守り神として信仰されている。
足利義満が初めて観阿弥・世阿弥父子の能を見た場所としても知られている。
↓公式ホームページにはさらに詳しく書かれています↓
http://imakumanojinja.or.jp/
後白河上皇は久寿2年(1155)に29歳で天皇となり、保元3年(1158)上皇に、嘉応元年(1169)に法皇となりました。
新熊野神社が創建されたころは後白河上皇34歳(数え年)です。
創建された当時は熊野が再現されていたそうです!!
現在の新熊野神社からは想像できない光景。
タイムマシンで実物をみてみたい…!!
また、平家物語覚一本によると寿永2年11月19日、木曽義仲が後白河法皇と対立し法住寺合戦となった時、搦め手の新熊野方面は木曽義仲軍の樋口兼光が派遣されました。
兼光はどのあたりから法住寺へ向かったのか気になりますね。
当時を知るのはこの樟だけかもしれません。
『後白河上皇御手植之楠』
樟の参拝入口は16時半には閉まるそうです。
後白河上皇お手植えの「大樟:クスノキ:」さん
今から約830年前、当社創建の砌、後白河上皇は紀州国(和歌山県)の熊野から土砂から、木材などをこの地に運び、熊野になぞらえて、その新宮、即ち新熊野神社を創建された。
その折、熊野より移植、国家鎮守と万民福祉とをご誓願、お手植されたのが、現在の大樟:クスノキ:である。
又熊野の神々がご降臨になる「影向の大樟:ヨウゴウのクスノキ:」といい、健康長寿、病魔退散特に上皇が常にお腹を煩っておられたところから「お腹の神様」と信仰され、人々から「大樟大権現:クスノキだいごんげん:」と尊崇されている。
朝夕排ガスの激しい場所にありながら、樹勢は益々旺盛で、日夜人々の営みを見守り続けている姿は、尊く畏き極みである。(京都市の天然記念物)
樟を守る「くすのき会」は年会費3000円だそうです。
模型も展示されています。
境内には『京の熊野古道』が整備されています。
下記もその一つ。参拝の際にはぜひ巡ってみてください。
各線「京都」駅から徒歩25分