
『願はくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ』
そう願った歌人・西行を弔うために献花として多数の桜が植えられ西行の墳墓があり、西行記念館も建てられています。
西行墳墓周辺の桜
史跡 弘川寺境内
弘川寺は天智天皇4年(665)役行者の草創にかかり、天武天皇白鳳5年(677)勅命あって当寺に請雨を祈り、験著しかったので、龍池山弘川寺の寺号を賜り勅願寺となる。
天平9年(737)に行基がここで練行また弘仁年間には弘法大師が嵯峨天皇の命により中興された。
歌聖西行は晩年当寺の座主 空寂上人の法徳を慕って来られ、文治6年(1190)2月16日ここで入寂す。
その後南北朝時代には楠木氏の戦場となり、また戦国時代には河内国の守護畠山政長はこの寺に陣し、弟義就これを攻めて寛正4年(1463)4月15日堂塔ことごとく焼失した。
西行法師を慕うこと深く今西行と呼ばれた歌僧似雲法師は、享保17年(1733)当寺境内にその墳墓を発見し、墓域に草庵●んで隠棲した。
遺言により当寺境内の西行墳の傍らに葬られた。
保存顕彰規則により史蹟として指定
大阪府教育委員会
西行は平清盛公と同じ年で元永元年(1118年)生まれ。
元々は佐藤義清(さとうのりきよ)という武士で、妻と幼い子供がいる数え年23歳で突然出家。その理由は本人にしか分からないことのようで色々と憶測が飛び交っているようです。
全国行脚をしていますが拠点は高野山でした。
高野山の麓の天野には西行の妻と娘が移り住んでいたという西行堂や2人の宝篋印塔もあります。
そして西行は文治6年(1190)2月16日、数え年73歳で入滅。
希望通りの桜が咲き始めるころに生涯を終えました。
本堂の右側に墳墓へ続く道があります。
階段をのぼります。
木々の間から境内がみえます。右側の屋根が本堂。
途中に西行堂がありますが、ブルーシートがかけられていました。
軒下のアリジゴクの巣
更に階段をのぼります。
開けた場所にでて右手に土が盛ってあるように見えるのが西行墳墓です。
墳墓周辺は木が生え、碑が複数建てられています。
近くには西行の墓を見付けた江戸時代中期の似雲:じうん:の塚
墳墓から更に高いところに献花の桜が見られる場所があります。
この桜の山はどこかに続いているわけではなく、一回りしたら西行墳墓まで戻ります。
開館は春と秋。
建物内を通り、離れた場所にある記念館へ。
建物内には西行に関する書籍がズラリと並び、30~40cmほどの西行像が複数あり、中には神護寺を中興した文覚作の西行像も。
和歌山県で西行展が開催されていた時に、文覚が西行のことを「歌を詠んで歩いている大したことない人だと思っていたが実際会ってみたらそんなことはなかった」という評価をしていたことを思い出しました。
見どころ多数ですので時間を多めにとってゆっくり参拝されることをおすすめします。
時刻表など→https://www.town.kanan.osaka.jp/soshiki/somubu/somuka/gyomuannai/1/kongoubasuhaisi/6750.html