頼朝と政子の娘・大姫の延命にために建立されたと伝わります。
大姫が病に伏したのは父・頼朝の命で夫である義高が討たれたことが原因と云われています。
治承4(1180)年、以仁王の平家追討の令旨が各地の源氏に届けられ源頼朝や木曽義仲が挙兵しました。
頼朝と義仲はいとこですが義仲が頼朝を討とうとしているとの噂が流れ、義仲は息子の義高を頼朝の娘・大姫の婿としました。
大姫と義高は数え年でそれぞれ6歳と11歳くらいの1183年(寿永2年)の頃です。
名目上は婿ですが、実質的に義高は頼朝の人質です。
それとは裏腹に大姫と義高はとても仲良く暮らしていました。
平家を都落ちさせ、京に入った木曽義仲軍は乱暴狼藉を働き都の人々から嫌われ後白河法皇とも不和となり翌年の1184年(寿永3年)1月、宇治川でいとこの範頼・義経軍と戦い敗走途中で矢に当たり命を落としました。
そして義高も命を狙われることとなりました。
成長して父の仇を取ろうとする可能性も踏まえてのことです。
実質的に義仲を討ったのは範頼・義経軍ですが、範頼・義経に出陣を命じたのは頼朝だったからです。
義高が討たれ、大姫はその悲しみから心身ともに病んでしまいました。大姫はまだ7歳ころでした。
それから約13年後、大姫は20歳でこの世を去ったとされています。
抑々:そもそも:此の地蔵尊は承安の昔、源頼朝の長女・大姫の延命祈願の為、母の政子に依りて建立されたりと伝ふ。
東鑑:あづまかがみ:によれば大姫の良夫・志水冠者 義高は元暦元年正月廿日、父・義仲が粟津にて戦没せられたる後、自身の危険を恐れ4月21日の夜密に姫の御方に告知さる。
件の志水冠者は計略を廻らし今暁遁れ去り給ふ。此の間女房の姿を仮って:いつわって:姫君の御方の女房之を囲みて出ずとあり。
苦心して義高を逃したる後、海野小太郎民を身替りとして人目を晦ませしも事露はれ堀藤次親家:ほりのとうじ ちかいえ:の軍兵、義高を捜索せる時姫君、周章々々:あわてて:肝を消し給ふとあり。
同26日に入間河原にて誅殺されしを聞かされ姫君之を漏れ聞かしめ給ひ哀歎の余り禄水:たべもの:を断たしめ給ふ理運:せつないこ:と謂ふべしとあり。
27日候へ共事巳に後、姫君 御哀傷:かなしみ:の余り巳に病体に沈み給ひ日を追ふて憔悴:やつれ:すと記せり。
せの時、母・政子は大姫の悶々:もだえ:死に追づくを悲しみ経文を以て延命地蔵尊二体を作って治承4年の夏、頼朝旗揚げの際、母子して隠れたる所縁より走湯山常行堂の隅に壱体を奉祭して一山の衆徒をして法要を営ましめたり。
壱書に「姫君之を聞かせ給ひ悲しき者の為に本願を此の地蔵にかくべしと病床に坐して祈り給ふ」と見ゆ。
星霜:としつき:移り天正18年兵火:いくさび:に罹り一山堂字焼亡に帰したなが150餘年の後たる享保十乙巳年9月24日般若院 澄法印其の煙滅を歎き旧趾に一宇を再建し衆生済度の忍辱:にんじょく:の慈悲をたれたまいけるが明治初年現在の地蔵尊たるも年経ちければ有志相寄り寄進を募り堂宇を新にし尊像を補修す。
昭和10年9月27日落慶法要を厳修せり。
今昔を通して変らぬものは人の情愛なり愈々:いよいよ:念じて一門衆生の為延命の幸福:しあわせ:を祈り給へ云爾:しかいう:。
南山沙門 興尚謹書銘
わりと急な坂の途中に建てられています。
同じ名前で北条政子と源頼朝が劇的な対面をした逢初橋は伊豆山神社近くにありますが、こちらは赤く、バス停にもなっています。
ここはとにかく交通量が多い!!
逢初地蔵尊へはこのバス停から徒歩1分ほどの細い坂道を下ってすぐです。
東へ徒歩5分ほどで伊豆山神社への参道が通っており「走り湯」も見学できます。
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