保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐に配流となりました。
その時に立ち寄ったのが現在の兵庫県尼崎市で、「崇徳院」の町名やバス停が存在しています!!
②JR「立花」駅から南へ徒歩30分
バス停から徒歩約1分で菜切塚です。
■菜切塚
鳥羽法皇の崩御をきっかけにその子供たち・崇徳上皇と後白河天皇の政権争い。
藤原氏や平家、源氏が親兄弟それぞれ崇徳上皇側と後白河天皇側について争いました。
この時、平清盛、源義朝は後白河天皇側につき、勝利を収めてました。
保元の乱では約350年ぶりに死刑が復活し、義朝は父・源為義を、清盛は叔父・忠正を手にかけました。
阪神電車 尼崎センタープール前駅からバス通りを北へ進むと「崇徳院バス停」に出会えます!!
バス停の東側は崇徳院の町名となっています。
崇徳院が「すくねづかの御製」を残したという塚。(すくねづかの御製って何??)
此の地は、菜切塚(菜切山)と称し、武内宿禰の墳墓として、古来地区民に畏敬
せられてきた。
現在、この一円を菜切山町とよぶのはその古事を残すためである。
菜切塚は、浜田町二丁目の武内家(浄専寺)に伝わる古記によれば、「孝元天皇曽孫武内宿禰大臣、免位:めんい:の後、難波宮松原の傍(現・浄専寺周辺)に住し給う。
宿禰薨後:こうご:此処に葬る。宿禰塚此なり」とあり、また、「宿禰の一子この地に留まり、代々朝廷に仕えた」と記されている。
菜切塚は、戦前までは環溝のある前方後円墳の形状をしていた。
古記によれば、崇徳上皇讃岐に配流の折、保元二年七月、浜田の地に逗留され「すくねづかの御製」を残されたとあり、文明年間の洪水で御製は流失したと言う。
また、後醍醐天皇隠岐御遷幸の折、「菜切の里」にて御休幸の故事あり。
現在武内家にその御宸翰:しんかん:の巻物一巻が保存されている。
後に明治43年7月、宮内省諸陵寮の調査があり、その記録には「当古墳は前方後円制にして環溝あり、巾前方十九尺後方四尺横三尺丘陵の高さ一丈六尺」と記されている。(武内家所蔵古文書による)
昭和10年代の大庄中部第一土地区画整理のため、環溝および拝所が東、北の幹線道路となり、従来の約半分足らずの広さになった。この菜切塚を市民に親しんでもらうため、市の管理のもと、菜切山緑地として保存することとなった。
交差点の一角に木々が生えている場所があり、解説板が立っています。
この解説がなかったら空き地にしか見えない……
中には入れない様子です。
崇徳院は鳥羽法皇の子供ですが、実の父は鳥羽法皇の祖父・白河法皇だと云われており、鳥羽法皇が崇徳院を忌み嫌い、崇徳院は不遇の扱いを受け、保元の乱でも敗れ流された讃岐の地で最期を迎えました。
香川県には多数の崇徳院ゆかりの地が残されています。