探訪してきたのは下記の6箇所。①~⑥をクリックすると詳細へリンクします。
()内はゆかりの人物。
①西行堂(西行の妻娘)
②西行妻娘宝篋印塔、鬼王・団三郎の墓(西行の妻娘、鬼王・団三郎)
③横笛の恋塚(横笛)
④院の墓(待賢門院に仕えた中納言の局)
⑤有王丸の墓(有王丸)
⑥丹生都比売神社(北條政子)
↓史蹟ではありませんが…食事処もご紹介↓
⑦Cafe 客殿
①~⑥全て周って⑦で食事して約2時間半です。
横笛が滝口入道に会えるかも?と待っていた場所が「子安地蔵尊」だそうですが、道路が台風の被害を受けているようなので今回は断念。
②JR和歌山線笠田駅コミュニティバス「丹生都比売神社前」バス停下車
コミュニティバス → http://www.katsuragi-kanko.jp/communitybus/communitybus-katsuragi.html
平清盛と同じく鳥羽院に仕えており、しかも同い年の1118年生まれ。
北面の武士だったときは佐藤義清(さとうのりきよ)という名で、数え年23歳で出家して西行(さいぎょう)となりました。
その後は各地を旅し、歌を多数残しています。
このお堂は、昭和61年に場所を移して再建されました。
吉野の西行庵と弘川寺の西行堂と共に天野の西行堂は、西行妻娘ゆかりの堂として有名です。
西行妻娘の住まいとした庵を、西行堂として祀った天野の里人は再建を繰り返し、平安時代末期より守り続けてきました。
妻は西行が出家して2年後、この下の家の後方大地に庵を建て住みました。
娘も15歳の時、尼となり母と共に生涯を終えました。
母と娘はこの下に葬ら、だれが建てたのか小さな六地蔵にかこまれ、しずかに眠っています。
なく虫の 草にやつれて ゆく秋か
天野に残る 露のやどりぞ (似雲)
※似雲(じうん)は1600年代~1700年代の僧。
堂の正面から内部の様子が見えます。
堂内の様子を少し。像もありましたので、ぜひ現地でご確認くださいね。
堂より低い位置にひっそりある西行の妻娘の墓。
9月15日に訪れると曼珠沙華が見ごろでした。
娘は秋彼岸に亡くなったとあり、少し早い命日参りとなりました。
二基の宝篋印塔は、西行の妻と娘を供養した碑で、和歌山県の文化財に指定されています。
向かって右より二基は、応安5年(1372)建立され、左二基は文安6年(1449)に建立されました。
後方の数多くの五輪は、曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。
二人の郎党は、主人の遺骨を高野山に納めた後、天野のこの地で生涯を終えたと伝えられています。
後方の五輪塔が鬼王・団三郎の墓だそうです。
鬼王・団三郎は源頼朝にも関係する建久4年の「曽我兄弟の仇討ち」というものに関係しているらいしのですが、壇ノ浦合戦より後のことは今一つ頭に入らず……三大仇討ちの一つに数えられるそうです。
宝篋印塔へはこの道をすすむのですが、見落としがち…
これに従って進みます。
地面に散らばる標識…
この草むらを進んだところに宝篋印塔があります。足元にお気を付けください。
生没年不明。その最期は複数の説があり、この天野に墓があるのもその一つ。
平重盛に仕えていた武士・斎藤時頼と恋仲になったが、時頼の親の反対により時頼は出家し「滝口入道」となり、横笛とは会わないことを決心。
諦めきれない横笛は後を追い、その伝説が各地に残っています。
平家に仕えた名門武士、斉藤時頼(滝口入道)が雑仕横笛と恋におちたが、実らぬ恋と悟って時頼は出家し、嵯峨の往生院に入った。
後に高野山で多聞坊浄阿と称し、仏門修行の毎日を送りました。
横笛も後を追い、奈良の法華寺で生涯を終えたとか、桂川に身を投げたなどの諸説があるが、治承3年(1179)高野山に入った時頼のあとを慕い、ここに庵を結び、恋しい人にあうこともなく、19歳ではかなくなったと伝えられています。
滝口入道の歌
そるまでは 恨みしかとも梓弓 まことの道に 入るぞうれしき
横笛の返歌
そるとても 何か恨みん 梓弓 引きとどむべき 心ならねば
この道の奥の正面が横笛の恋塚です。
正面は供養塔、右のバラバラの五輪塔が恋塚だそうです。色々寄せ集められている…?
供養塔は新しいもののようです。
次は院の墓へ。有王丸の墓との分岐点。先に院の墓へ行くことにしました。
院(待賢門院・璋子)の墓と伝わる墓。しかし解説板を読むと…
院の墓と伝えられているが、鳥羽天皇の皇后の待賢門院の墓でなく、院に仕えた中納言の局の墓と考えられます。
「山家集」には、中納言の局の墓が待賢門院の喪に服した後、京都の小倉の住まいを捨て、天野に移り住んだと記されており、久安5年(1149)の頃と推定されます。
この地に庵を結び、入寂した後、里人が葬ったのがこの墓です。
ここのすぐ下に西行堂があり、西行と関係の深かった中納言の局が、高野山への道、八町坂に面したここに住まいを持ったのも当然と言えます。
院の墓は場所がわかりにくく、一旦通り過ぎてしまいました(;’∀’)
そしてなぜか二基建っています…謎が深い。
元の道を戻り、先ほどの分岐点から有王の墓へ進みます。
道端に突然現れるのが有王丸の墓です。
俊寛僧都の召使有王は、鹿ヶ谷の謀議に敗れて鬼界ヶ島に流され、寂しく世を去った俊寛の遺骨を、治承3年(1179)5月高野山に納め、法師となって主の菩提を弔い、天野に住み生涯を終えたと云われています。
俊寛の娘もまた、12歳で天野の別所で尼となったと「源平盛衰記」に記されています。
「有王は俊寛僧都の遺骨を頸にかけ、高野へ上り奥の院に納めつつ蓮花谷にて法師となり、諸国七道修行して、主の後世をぞ弔ひける。」
大きな石以外にも墓?供養塔?らしきものもあり、植物もお供えされていましたが台風の被害か散らばっていました。
世界遺産に登録された「にうつひめじんじゃ」は北条政子により社殿が寄進され、四殿になったと由緒に書かれています。
公式ホームページ → http://www.niutsuhime.or.jp/yuisho.html
鳥居をくぐり急角度の輪橋(りんきょう)を渡ると…
中鳥居と楼門がみえてきます。
社殿はこの楼門の後ろで、見える場所があります。
北条政子が寄進したと伝わる社殿はぜひ現地でご覧くださいね。
北条政子が奉納した金銅琵琶を象った「琵琶守り」も。
また、北条政子は御影堂も建立しましたが現在は跡地が残されています。
お堂は、三間(五.四米)、四方に三尺(90糎)の縁をつけ、本尊は、大師尊像を安置していました。
源頼朝の妻、二位の尼(北条政子)によって建暦元年(1211)建立され、二位の尼が熊野詣のかえりに天野社に立ち寄り、三、四社殿の建立寄進と共に女人禁制で高野山に登れない女人のためと、夫頼朝の菩提を弔うために建てられたと云われています。
御影堂跡へは藤棚をくぐり、草むらの奥に進みます。
蛇がいるそうです。
この付近が御影堂跡。
脇ノ宿石厨子。役の行者の石像が中にあるそうです。
源平関係の史蹟は以上ですが、丹生都比売神社の鳥居から徒歩2分のCafe 客殿(きゃくでん)さんではこの天野の土地で採れた天野米を使った食事をいただけます(^^)/
メニューは1種類ですが米は白米またはおにぎり、茶粥、卵かけごはんから選べ、メインが日替わりです。(2018年9月現在1300円税込)
具だくさん味噌汁が美味しい♪新米は早ければ9月末頃からだそうです。
訪れた日のメイン料理は私にとっては食物アレルギーがある食材が使われていたため、事情を話したらメインを鶏の葱ソースに変えてくださいました!
ありがとうございました!!
店員さんもとても感じの良い方でした(^^)/
ちなみに「客殿」さんは経営者のお名前だそうです。
営業時間や定休日などは客殿さんのホームページでご確認くださいね。
http://cafekyakuden.xyz/info.html
2018年の高野山麓世界遺産アクセスバス初日に乗車した記念に突然の嬉しいプレゼントが配られました!
クリアファイルに手提げ鞄、手ぬぐいなど♪
過去に天野を訪れたことのある方の案内で巡ってきましたが、1人だと見つけられなかった場所もあったと思います。
ありがとうございました!!