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西楽寺<山口県下関市>

蝶紋が素敵なマッチ箱

平重盛の持仏や位牌が安置されている西楽寺は弟・知盛の知行国であった彦島で守られています。
平重盛公守護佛と刻まれている

住所
山口県下関市彦島本村町5丁目3-1
交通
①JR下関駅から徒歩30分
②JR下関駅からサンデンバス乗車10分、「本村」バス停下車南へ徒歩南へ3分

サンデン交通ホームページの中ほどにある
『系統番号付き路線図(全路線)』をクリックするとPDFが開きます↓
http://www.sandenkotsu.co.jp/bus/route_bus/route_map

※南へ徒歩約30分ほどのところに清盛塚があります

参拝について
境内自由、本堂はお寺の方がいらっしゃれば拝観可
参拝目安時間
20分~
お気に入り度
★★★★☆
参拝日
2007/09/23、2015/09/06、2016/07/30
備考
解説板より
西楽寺の本尊である阿弥陀如来坐像は、古くは平重盛の持仏であったと伝えられており、彦島の人々によって大切に守り伝えられてきました。

本像はヒノキの材を用いて、寄木造という技法でつくられています。
この寄木造りとは、いくつかの材を組み合わせて本体をつくる仏像製作の技法です。
平安時代に考案され、以後多く用いられました。

丸く張りのある顔立ちや体型、浅めに彫られた繊細は衣の線などの表現から、本像は平安時代の終わりごろから鎌倉時代のはじめにかけて制作されたと考えられます。

後の時代に部分的な修理や表面の彩色がほどこされています。
平家一門と彦島の地とのかかわりをうかがわせるものとして、また当時の文化の豊かさを伝えるものとして貴重な仏像です。

下関市教育委員会

ご本尊の写真も

西楽寺について

お寺の方がいらっしゃればご本尊も拝観可能です。
これはお参りの際にいただいた素敵なマッチ箱と詳しく書かれた縁起。
詳しく書かれています

この縁起を簡単にまとめると
天武天皇(673~686)が作らせた仏像で奈良の東大寺に500年安置され、承安4年(1174)平重盛が紀伊の熊野大権現に参籠して西方往生を遂げたいと祈ったところ東大寺の坐像は真の弥陀で、その佛に願うようにお告げがありました。重盛はこの阿弥陀如来を申し請け平家の守り本尊としていました。
壇ノ浦合戦で平家が滅亡しこの本尊を守護していた植田治部之進、岡野将監、百合野民部の3人が阿弥陀如来、観世音菩薩、薬師如来の三尊像を奉持して壇ノ浦から彦島に上陸したとなっています。

また、マッチ箱に書かれている「彦島開闢尊像」
これについては
建治2年(1276)、時宗の開祖・一遍上人が九州地方を立ち寄ったときに従っていた西楽法師(平忠政の孫)がこの阿弥陀如来が凡作でないと感じ島人に頼んでこの本像を守護することになり、正覚山西楽庵が建てられました。
西楽法師は彦島で平家再興をはかる人々の野望を静め、農業や漁業につくよう導き、彦島に平和をもたらした阿弥陀如来ということで「彦島開闢尊像」とも称されているそうです。

これと同じような内容が2007年9月24日にお参りした際に扁額の横にありましたが、最後の方ははがれて読めなくなっていました。
過去にあった由緒

解説板より
西楽寺本尊 阿弥陀如来像縁起

当西楽寺本尊阿弥陀如来は当彦島に置いては昔しから彦島開闢:かいびゃく:尊像平重盛公護持仏として島民に尊ばれておられました。

此の阿弥陀如来はその昔、第40代天武天皇(675)仏教に深く帰依をされ眞の阿弥陀如来を拝せんことを発願されて奈良春日大明神に参籠祈誓をされて一夜春日大明神の神示を受けられ、神示に従って賢門子と言える仏師に命じられて造られた阿弥陀如来と伝えられ、それから500年後、平家全盛の時、平清盛の嫡男平重盛公は日々に募る父清盛の専横に心を痛めて世の無常を観じ紀州熊野権現に参籠、平家滅亡後の平家一門の菩提のために眞の阿弥陀如来を拝せんことを祈誓された所「奈良東台寺に安置してある天武天皇発願の阿弥陀如来座像は極楽の眞の阿弥陀如来也」との霊夢を受けられて急ぎ京に帰り、第80代髙倉天皇(1168)に奏上されて奈良東台寺より件の阿弥陀如来をゆづり受けて自邸に勧請して朝夕礼拝供養をされた阿弥陀如来と傳へられて居ります。

重盛公は父清盛の専横に心労の余り病気になられて其頃西の極楽と呼ばれていた平智盛公の知行地彦島に阿弥陀如来とともに京を西下されて彦島に渡られて阿弥陀如来を彦島に安置して御自分は自分の知行地九州に渡られて九州の地で亡くなられました。

平家壇ノ浦に滅びて50年。河野一族から一遍(1276)と言える浄土門の奥義を窮め襌にも達した念仏聖が出られ念仏平和を日本国内に勧めるべく跣で日本●国を始められ、その途路下関に来られ、彦島の話を聞かれ弟子西楽法師(平忠正の嫡孫)を連れて彦島に渡られ彦島の人たちに其の否を悟らせて、西楽法師を彦島に残して一遍は下関に帰へられました。彦島に残られた西楽法師は島の人達と語らい、重盛公の護持仏阿弥陀如来を本尊に精舎を建てられ、西の極楽といわれた彦島の名を取て西楽と寺号をされました。

人は変り幾星霜時は流れて明治の世となり明治政府は西楽寺を廃寺にしました。
(以下不明)

お参りときにいただいたマッチ箱。
友人の話しによると毎年箱の色が変わるそうです。お参りの記念になりますね。
平家寺

本堂

源平菩薩

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