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埴生護国八幡宮<富山県小矢部市>

木々に囲まれて

俱利伽羅峠合戦の時、木曽義仲が戦勝を祈願して願文を奉納し、800年記念に建立された木曽義仲の騎馬像が見上げる位置にそびえています。

この鳥居から北へ真っ直ぐ進むと…
鳥居

文化財のこと

二の鳥居まで歩みを進めると左手に「源義仲像」
昭和58年に

勇猛そうに見えます。
馬の顔がこわい?

倶利伽羅峠合戦までの流れ
寿永2(1183)年3月、木曽義仲を討つために源頼朝が信濃の善光寺まで軍を進めました。

治承4(1180)年に各地で源氏が挙兵。頼朝と義仲はいとこですが協力しあうこともなく、義仲が頼朝を討とうとしていると讒言する者もあり緊張状態が続いていました。
そこで義仲は息子・義高を頼朝の長女・大姫の婿(実質は人質)として頼朝の下に送り、和解しました。

一方平家は源氏を討つために兵を進めており、燧ヶ城の戦いでは源氏を敗走させ倶利伽羅峠までやってきました。

■義仲略系図

育ちについて

像の向かいには鳩清水
御守りなど

綺麗な水

龍の口から水

解説板より
■鳩清水
手洗鉢に注ぐ水は水源を倶利伽羅山中の幽邃境「鳩清水」の滝に発し、3キロの山側を経て、ここに至ります。

今を去る八百年の昔、木曽義仲が当社に祈願の折、白鳩の飛来があり、その案内で源氏勢が清水を得たと伝える霊水であります。

昭和59年の全国名水百選には富山県推薦名水となり、また「とやまの名水五十五選」の1つに選ばれました。

■石段
社殿正面に昇る石段(103段)は戦国末、埴生村蓮沼の城主・遊佐慶親の寄進にかかるものです。

もとは108段ありました「108の煩悩を踏み消して神様に近づく」のであります。
富山の名水

由緒(解説板より)
■御祭神 主神 八幡大神
 産業・文化・勝運の神

宮縁起によれば、奈良時代養老年間に八幡宮の御分霊を勧請(お迎え)したのに始まり、天平時代には越中の国守大伴家持が国家安寧を祈願したと伝えられる。

平安時代の末、寿永2年(1183年)5月、木曽義仲は倶利伽羅山で平維盛の大軍と決戦するに当たり、埴生に陣をとり、当社に祈願をこめて著しい霊験があった。
このことは、平家物語、源平盛衰記などの中に語られている。

以来、蓮沼城主遊佐氏、武田信玄、佐々成政など、戦国武将の信仰が篤く、江戸時代には、加賀藩主前田侯の祈願社となった。社名の「護國」とは、江戸の始め、地方に凶作が続いたため、前田利長卿が当社に祈願せられ、この尊号を奉ったことによる。

社殿は、大正13年国宝となり、現在は国指定重要文化財となっている。

■例祭 9月15日、特殊神事「宮巡り」が行われる。
■境内 約2万坪、日本一の源義仲像、「鳩清水」(とやまの名水)がある。

祭神

9月15日の特殊神事が気になるので、いつか参加してみたいと思います。
気になる宮巡り

階段の上に拝殿が見えています。
苔が多い

お参り

拝殿に設置されている由緒
宇佐八幡宮を勧請

向こう側に見えるのが宝物殿
雰囲気ある境内

要予約です。
団体割引あり

社殿の解説。現地で実物を拝みながら読むのが一番ですね。
工事のことなども

宝物殿は一見の価値ありです。
義仲の願文など

■願文について簡単に

これを書いたのは木曽義仲の右筆・大夫房 覚明:たいふぼう かくめい:。
覚明は南都にある興福寺の僧。3年前の治承4(1180)年、以仁王が挙兵した際に平清盛のことを「平氏の糟糠、武家の塵芥」と言った人物です。(平家物語覚一本)
(糟糠:そうこう:つまらないもの。塵芥:じんかい:ごみ)

清盛を罵って怒りをかった覚明は北陸に逃げ、文才に優れていたため義仲の右筆となりました。
この願文の素晴らしさに感動し、涙をこらえられない者もいたとか。

存分に拝観したら鳥居まで戻って、すぐ近くの『倶利伽羅源平の郷 埴生口』へ。展示有り、食事処有りです。

埴生字谷内 源平茶屋や展示がある休憩所
倶利伽羅源平の郷 埴生口 >>
倶利伽羅峠に向かう道

木曽義仲像の別角度の写真も載せておきます。
躍動的

平家の敵

住所
富山県小矢部市埴生2992
交通
あいの風とやま鉄道「石動」駅から徒歩25分

参拝について
境内自由
宝物殿は要予約、有料
参拝目安時間
30分~
お気に入り度
★★★★☆
参拝日
2009/05/04、2019/07/20
備考
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