現在の岡山県出身とされる妹尾兼康は平清盛の側近で、平清盛の孫・資盛が起こした殿下乗合事件(嘉応2年・1170)の報復に向かわせたり、南都焼討のきっかけとなった兼康が検非違使に任ぜられ南都の衆徒を鎮めに向かった時など平家物語に多数登場します。
清盛没後、約2年後の倶利伽羅峠合戦(寿永2年・1183)に出陣し生捕りにされましたが、木曽義仲がこの者を失うのは惜しいということで斬らずにいました。
そして同じ年の閏10月には逃亡を試み奮闘しましたが、討たれてしまいました。平家物語覚一本によるとこの時、兼康は60歳を過ぎていました。
木曽義仲に兼康は一人当千のつわものだ。助けられたかったのが悔やまれるといわしめた人物です。
そんな妹尾兼康が築いた洲浜城。
下記の現地解説によると兼康は16歳でこの地に入ったとあります。20代ころには作っていたのでしょうか?
妹尾は平家の大将の一人「妹尾:せのお:(瀬尾:せお:とも言う)太郎兼康:かねやす:」の領地であったと伝えられている。
現在城趾と思われるところは、地元では「稲荷山:いなりやま:」と呼んでおり、お稲荷様が祀られていた。
このあたりは広々とした平野が続き、穀倉地帯をなしているが、かつては「吉備の穴海:きびのあなうみ:」と言う干潟で漁業が盛んに行われていた。
兼康公の母は瀬尾兼門:せおかねかど:の妹・保子である。
兼門は太治元年(1126)滅んだが、保子だけは鳥羽上皇の宮女として仕え、上皇の御子を宿していたため許されて、平忠盛(清盛の父)に預けられ、上皇の御子を産んだと伝えられている。
これが妹尾太郎兼康公である。
兼康公は16歳で妹尾に入り城を築き「洲浜城」と称していたと伝えられている。
兼康公は土木技術にも優れたものを持っており、高梁川を水源とした「湛井:たたい:十二ヶ郷用水」の整備は特に有名で、地元では開発領主として名を残している。
この案内板は、歴史的財産を復興するため設置した。
平成24年10月14日
この周辺は開発途中なんでしょうか。近くにショベルカーが見えました。(2018年1月21日撮影)
入口?
「妹尾太郎兼康公居館趾」
住宅街から続く、自然が残る場所で不思議な空間でした。
付近は細い生活道路ですが、所々に案内が設置されています。
この坂をのぼり、もう少し進むと洲浜城趾です。