建春門院が現在の大阪府高槻市にある三島鴨神社に皇子が授かるように祈り、後の高倉天皇が誕生しました。
喜んだ後白河上皇は京の巽の方角の守護神として、平重盛に命じて社殿を造営させたのが始まりです。
■略系図
馬町交差点を東へ400mほど進み、京都女子大学J校舎の手前の路地を北へ進んだ先に三嶋神社の幟と社務所が見えてきます。
社務所
平重盛が後白河上皇の勅命で造営されたことが掲示されています。
長文ですが、源平に関する内容は持ち帰れる紙の由緒の方が詳しいです。
↓紙の由緒。左は2013年に、右は2019年にいただきました。デザインも若干変わっていて年略譜にも追記されています。
年略譜は難しい言葉で書かれているため、簡単にまとめましたが間違っていたら矢文などでご指摘ください……
永暦元年(1160)9月 | 後白河上皇の命を受けた平重盛が造営 |
承安4年(1174) | 牛若丸参籠、平家追罰を祈願 |
治承2年(1178)5月 | 平清盛の娘・徳子の安産祈願のために資盛に命じて黄金及び太刀奉納 |
文治元年(1185)9月 | 千葉常胤参詣、盗賊を捕まえることを祈る |
建久元年(1190)11月 | 源頼朝上洛、伊豆の三嶋神社を尊 |
仁治2年(1241)9月 | 社殿炎上 |
以下略、その後も戦火で炎上しています。当時の姿は残っていないんでしょうね…
建久元年に頼朝が何をしたのかがわかりかねます。
資盛に命じたのは平清盛??
清盛が娘・徳子を高倉天皇に嫁がせたのは、産まれた子を天皇にして外祖父となるためだったので必死だったと思われます。清盛の願い通り、言仁親王が誕生し、数え年3歳で安徳天皇となりました。
■略系図をもう一度載せておきます
社務所の向かいの一角、かなり狭いですが鳥居が建っています。
これは2019年10月13日撮影。
その6年前の2013年11月9日に参拝した際は竹の鳥居でした↓
比較的新しい印象です。
祭神として大山祇大神:おおやまづみのおおかみ:、天津日高彦火瓊々杵尊:あまつひだかひこほのににぎのみこと:、木之花咲耶姫命:このはなさくやひめ:を祀る。
後白河上皇の女御・建春門院(平滋子)が皇子のないのを憂い、摂津三嶋神に祈願されたところ、霊夢に感じて後の高倉天皇をお産みになった。
後白河上皇は深く三嶋神を崇敬され、永暦元年(1160年)、平重盛に命じてこの地に社殿を造営し、三嶋神を勧請したのが当社の起こりである。
以来、皇室の尊崇厚く、安産加護を祈願された。
今も子授けと安産の神として信仰され「鰻」の絵馬が多数奉納されている。
これは鰻が祭神の使者とされているためで、祈願中は鰻を禁食する慣わしが現在でも伝えられている。
毎年秋には「うなぎ祭(鰻並びに生類放生会)」が行われ、あらゆる生物の出生、育成、放生を加護する神として崇敬されている。
社殿の隣の大きな石は牛若丸(源義経)ゆかりの「揺向石」
揺向石:ようこうせき:
承安4年(1174年)左馬頭 源義朝の子、牛若丸(源義経公)が当神社に参籠した折り夢の中に白髪の翁が現れ汝志久しく可からず、早々に奥州に下る可しとの御神託があり、夢より覚めて再拝し翁の立ち所を見ると、石があった。
今社頭にある此の石である。以来、「揺向石」と言われ、妊婦が当社に参拝をなし男子の授けを祈願し、此の石に手を触れ、お腹を撫でると牛若丸のような立派な男子が授かると古くより伝えられている。
また江戸期の当神社境内図には、相生:あいおい:の松(二本の離れている松が、中程の枝同士で一本に結ばれている神木)の間に、此の「揺向石」が祀られており、結び(良縁、夫婦和合、家内安全)の御神徳がある。
「牛若丸のような立派な男子」は平家がわからみると『う~ん』となりますね( ̄▽ ̄;)
多数の人々が信仰した三嶋神社。近くには源平ゆかりの地が多数ありますので近くに来られた際は立ち寄ってはいかがでしょうか。
①市バス約10分乗車、「馬町」バス停下車東へ徒歩10分
②徒歩35分
西へ 徒歩約6分……佐藤継信・忠信の墓
南西へ徒歩約15分…三十三間堂、法住寺
北西へ徒歩約15分…六波羅蜜寺
東へ 徒歩約3分……平重盛の別邸の小松谷 正林寺
東山区渋谷通 | 平重盛の別邸があった 小松谷 正林寺 >> |
平重盛 九条兼実 法然上人 |