鹿ヶ谷事件の首謀者・俊寛、平康頼、藤原成経が鬼界ヶ島に流れるときに船出した場所とも云われ、成経の後を追ってきた伯耆局:ほうきのつぼね:が最期を迎えた地と伝わっています。
※俊寛たちの船出については鹿児島市の説も有ります
平家打倒を目指した『鹿ヶ谷事件』は僧である俊寛:しゅんかん:の山荘で密議が行われましたが、これは多田蔵人行綱の密告より平家の知るところとなりました。
この密議に参加した藤原成親はもちろん、その嫡子である成経は罰せられ成親は現・岡山へ、成経は俊寛、平康頼の3人で鬼界ヶ島へ流されることとなりました。
平家と藤原成経を系図で。
平教盛の娘はこの時妊娠中で、お腹の子の父は成経です。教盛は成経を助けようと必死に清盛に進言しましたが、聞き入れられませんでした。
伯耆局:ほうきのつぼね:は直接平家とは関係ありませんが、成経の恋人です。
駅から歩いていると大きな木が見えてきました。
木の根本には平家物語長門本による鹿ヶ谷事件との関わりが記されています。
こがの杜は、時代や書物によって、風の森・古賀の杜・古歌の森・久我の森・木嵐の森・木之杜とも呼ばれていました。
江戸時代(1678年)に書かれた「名所方角抄:めいしょほうがくしょう:」には、こがの杜は、気色の杜とあわせて大隅国の名所として紹介されていますし、江戸時代後期に書かれた「薩隅日地理纂考:さつぐうにちちりさんこう:」や「三国名勝図会:さんごくめいしょうずえ:」には、「国府郷気色:こくふごうけしき:の杜の北十町(約1キロ)の水田の中に楠の大樹があり、その根回りは八丈二尺(約25メートル)もある」と記されています。
「長門本 平家物語によりますと、鹿ヶ谷事件(平清盛追い落とし事件)が失敗し、平清盛によって遠島の刑に処せられた僧侶・俊寛・平康頼・藤原成経は、鹿児島の鬼界ヶ島に流されました。
その時の船出の場所は、こがの杜付近からだったとも言われています。
さらに、藤原成経の愛人であった「伯耆局:ほうきのつぼね:」は、成経を慕って鬼界ヶ島に渡ろうとこの地までたどり着きましたが、それが叶わず、伯耆局はこの地で果てたと言い伝えられています。
また、「こがの杜」の名は和歌に詠まれている「歌枕」の地ともなっています。
夫木集 按察:ふぼくしゅう あぜち:
松葉名所集 春渚:まつばめいしょしゅう:
※こがの杜の名称は、気色の杜・なげきの杜に合わせて「杜」で統一しました。
立派な木がこの地を見守っているかのようです。
新緑が綺麗なころにもう一度きてみたいと思いました。
葉っぱで隠れていますが「こがの杜」と書かれているようです。
側面の文字は読むのが困難です…
駐車場あり、ベンチあり、憩いの場のようです。
↓霧島市の広報(PDF)11ページに俊寛が船出をした港が紹介されています。
広報きりしまVOL.64
こがの杜から北へ徒歩3分、こがのもりコミュニティ広場もありました。
ここは史蹟ではありませんが、こがのもりの名が付いているので紹介しておきます。
※鹿児島市の船出の説についてはこちらにまとめました↓
鹿児島市 | 俊寛、平康頼、藤原成経がこの場所から船に乗った。 俊寛之碑 >> |
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