宇佐神宮と平家の関わりは大きく2つ。
・勅使に命じられた平経正が琵琶を演奏
・都落ちした平家一門が参籠、宗盛に夢のお告げ有り
とにかく広いです!
清盛の甥・平経正:たいらのつねまさ:が17歳の時に宇佐神宮の幣帛を奉る勅使を命じられました。
ちなみに経正は生年不明ですのではっきりした年代は不明です。
この呉橋から鳥居の外へまっすぐ続く道が勅使街道とよばれています。経正も通った?
宇佐神宮に参詣した経正は世にもまれな名器とされる琵琶・青山:せいざん:で神殿に向かって秘曲を奏でました。
するとその素晴らしさに涙を流す官人たち、音楽とは縁遠い者たちにも感動を与えました。
経正は8歳から元服する13歳まで稚児として仁和寺でお仕えしており、その間に青山を与えられました。
そして寿永2年(1183)7月の都落ちの際に、青山を返すために仁和寺を訪れました。弓矢を持ち、甲冑姿のため守覚法親王のお目にかかるのは遠慮しましたが守覚法親王が招き入れ、青山を返却し歌を詠み交わしました。
嘉祥3年(850)に掃部頭 貞敏:かもんのかみ さだとし:が唐に渡り
青山:せいざん:
玄象:げんじょう:
師子丸:ししまる:
の合計三面の琵琶及び曲とともに帰国しました。
ただ、師子丸は運んでいる途中に海が荒れ、竜神に供えるために海底に沈められ、玄象と青山を朝廷の御宝としました。源平の時代より約250年前ですね。
(上記の内容は平家物語覚一本7巻 経正都落と青山之沙汰を参考にしました)
呉橋は10年に一度の勅使祭のときのみ扉が開くそうです。
呉橋を渡った先にはかつて弥勒寺がありました。
橋が架かる寄藻川。
寿永2年(1183)7月、木曽義仲軍が京に攻め入る情報が入ると平家は都落ちを決め、西国を目指しました。
8月には大宰府に到着しましたが、豊後の緒方惟栄(おがたこれよし。平家物語覚一本では「維義」表記)の謀反の報が伝わりました。
緒方惟栄は故・平重盛の御家人だったため、重盛の次男である資盛が説得にあたりました。
しかし、平家と惟栄は平行線をたどり、清盛の側近だった源大夫判官季貞:げんだいふのほうがん すえさだ:と摂津判官盛澄が戦いましたが力及ばず。
平家は太宰府を落ち宇佐へ。
宇佐神宮の宇佐大宮司 公通:きんみち:は平清盛の娘婿ともいわれています。
公通の館を安徳天皇の行在所と定め、社殿や回廊には一緒に都落ちした人々の居所となりました。
平家は7日間(宇佐神宮由緒では17日間)参籠、祈願。満願の日に宗盛に夢のお告げとして
世の中の うさには神も なきものを なにいのるらん 心づくしに
(世の中の苦境には神も及ばないのに何を祈っているのか)
それに対し宗盛は
さりともと 思ふ心も むしの音も よわりはてぬ 秋のくれかな
(心細くも望みを持っていた心も虫の声も弱ってしまった秋の夕暮れだ)
と古歌を詠み、その後は太宰府に還御しました。
(上記の内容は宇佐神宮の購入した由緒と平家物語覚一本8巻 「緒環」「太宰府落」を参考にしました。なぜ再び太宰府に還御したのか個人的に疑問です。)
まずは上宮へおまいりします。
こちらは西大門。
平家一門もきっとこのどこかで祈願していたのでしょう。
左が南中楼門(勅使門)
こちらでも多数の方が山を拝んでいました。
次は下宮へ。
上宮が鎮座している小椋山は亀山とも呼ばれ、亀山の山の神を祀っているそうです。
参集殿、宝物館の周りの池には「原始蓮」が咲くそうです。
蓮の季節にも来てみたい…
ほのぼの光景
平家が宇佐神宮を立ち去った翌年には緒方惟栄による焼討ち遭いました。源氏の命だったと由緒にあり、源範頼(みなもとののりより。頼朝の弟で、義経の兄)が謝罪し奪った神宝を戻したとされています。
その後の歴史でも焼討ちや焼亡の文字を見かけます。
平家がお参りした時はどんな社殿だったのでしょうね…
また、公式ホームページの年表には承暦年中に白河院がに新宝塔院を建立したとあります↓
http://www.usajinguu.com/history/
みどころ多数の宇佐神宮、参拝の際にはゆっくり時間をとることをオススメします。
写真多すぎて載せきれません!!
※バスは1時間に1本程度、宇佐駅前のタクシー利用の場合は約1300円(2015年9月現在)
※JR小倉駅からは特急ソニック約50分で宇佐駅に着。
参考までにバスの本数。最新の時間は大分交通ホームページ(https://www.oitakotsu.co.jp/)でご確認ください
http://www.usajinguu.com/
宇佐神宮近くで蝶と出会いました♪
駅も雰囲気ありました。