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鶴嶺神社<鹿児島県鹿児島市>

頼朝を祀る
※このページの写真は2017年3月6日撮影

「つるがねじんじゃ」と読み、境内に源頼朝公御石塔が建てられています。
ここは鹿児島、しかし建立したのは鎌倉市民。その理由は……

・源頼朝
・島津氏
・鎌倉市民有志

この3つのキーワードを元に鹿児島に頼朝の石塔がある理由を探りたいと思います。

鶴嶺神社

先ずは鶴嶺神社について。
つるがねじんじゃ

解説板より
・鎮座地
鹿児島市吉野町磯

・御祭神
嶋津家歴代当主とその家族
玉里島津家歴代当主とその家族

・従神
家老五名、殉死者四十五名

・由緒
島津氏は鎌倉時代の初め文治元(1185)年より明治2(1869)年の版籍奉還に至るまで、約700年間にわたって南九州を治めた武将の家系です。

鶴嶺神社は明治2年(1869)年、島津氏の歴代当主と家族等をお祀りする神社として、鹿児島城下の山下鶴嶺:つるがね:(現、鹿児島市照国町)に創建されました。

明治6(1873)年、県社に列せられ、同12(1879)年に竜尾:たつのお:神社を合祀しました。大正6(1917)年に現在地に遷座:せんざ:されました。

なお、28代島津斉彬公は、日本の国旗「日の丸」をご考案されました。

由緒

由緒にある『鎌倉時代の初めから約700年間にわたって南九州を治めた武将の家系の島津氏』をよく覚えておいてください!!

そして鶴嶺神社はバス停名にもなっている「仙巌園」に隣接しており、仙巌園の入口にはこう書かれています。
国指定名勝文化財

ここで島津氏と頼朝の関係がみえてきました!!
また、島津氏は頼朝の子孫という説もあります。

その他の解説も。
多くの女性がお参りするようになった

ジメサァ

亀寿姫

美人守り

本殿にお参り。清々しくて落ち着けました。
人もまばら

源頼朝公 御石塔

頼朝の石塔の場所は鳥居をくぐり、最初の5段上がって右手にすぐのところにあります。
左手に駐車場

石塔の場所

頼朝の墓所

右側の石に建立の経緯が書かれています。
お供えの花も立派

ここにきて頼朝、鹿児島、鎌倉市民有志の関係性について知り得ました。

解説板より
■遷塔之記

正治元年(1199)に没した源頼朝公は、持仏堂であった大倉山麓の法華堂に葬られた。
幾星霜の後、江戸時代にはその跡を残すのみとなっており、安永年間島津家第25代島津重豪公はそこに立ち、五輪塔が立つばかりの荒廃ぶりを悲しみ、玉垣を新造し、墓塔には勝長寿院から多層塔を移して墓所を再興した。

平成の世に至り、心無き者が墓塔を破壊し、修復のために雛形塔を試作し、検討の上、旧に復した。

頼朝公没後八百年を記念し、墓所再興の恩義ある鹿児島島津家に雛形塔を寄贈して、永くその恩に報いたいとする鎌倉市民有志の声が高まり、宗家島津修久氏のご快諾をえて、鶴嶺神社に源頼朝公墓所再興報恩塔として、玉垣を添え、遷座するものである。

平成11年8月吉日
鎌倉市民 源頼朝公墓所 再興報恩之有志

石塔について

説明だけでは分からない部分があったため、自分用に要約↓

頼朝が葬られたのは神奈川県の鎌倉。頼朝の子供説がある島津忠久の子孫・島津氏の第25代島津重豪が1700年代に鎌倉で荒れ果てている頼朝の墓を再興しました。しかし平成の世に破壊されたため雛形塔を試作し、元に戻しました。
頼朝没後800年記念に鎌倉市民有志により、宗家島津修久氏の快諾を得て鶴嶺神社に報恩塔を建立。

これまでみてきた内容をまとめると…
約500年後に鎌倉で頼朝の墓を再興した島津重豪。
その島津氏に感謝した鎌倉市民有志。
だから鹿児島にあるのに『鎌倉市民 源頼朝公墓所 再興報恩之有志』
なんですね!!
島津氏と頼朝石塔のまとめ

3月6日に訪れると梅が綺麗でした♪
背面

3月

鳥居が見える

様々な繋がりで鹿児島に存在する頼朝の石塔。
建立背景を知ることができて良い旅になりました(^^)/

住所
鹿児島県鹿児島市吉野町9698−2
交通
①JR「鹿児島中央」駅から
まち巡りバス、カゴシマシティビューなど、バス乗車約40分「仙巌園前」バス停下車すぐ
②JR「鹿児島」駅から徒歩40分

参拝について
自由
参拝目安時間
20分~
お気に入り度
★★★★☆
参拝日
2017/03/06
公式ホームページ
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