2024年9月21日(土)に『東大寺講堂・三面僧坊跡 発掘調査現地説明会』が行われました。
説明会は4回ありましたが、最終の15時の回に見学してきました。
かなりの人数で50人以上は参加されていたと思います。
調査現場は講堂跡の東側。大仏殿の丁度北東に位置する場所です。
観光客のほとんどは大仏殿まで。
それより北側に行かれる人は少数なので、当日知って急遽参加された方はほとんどいないように思えました。
建築家の方が僧坊の想定図を作られたそうですが、実際にその通りに出てくるとは限らないとか、僧坊があった時代にはなかったであろう川の跡があり、いつ頃に川になったのか古地図などと照らし合わせながら専門家の方々も混乱しながら調査されたことをお話されていました。
一番の注目は3回の火災の痕跡が残っていることですね。
1回目 → 延喜17年(917)
2回目 → 治承4年(1180)12月28日
3回目 → 永正5年(1508)
2回目は言わずと知れた平重衡軍と僧兵の戦いになった南都焼討といわれる時。
焼討と言っても最初から燃やす目的ではなく、戦が長引き夜に灯りをとるための炎が強風で燃え広がって東大寺や興福寺も含め広大は範囲が焼けてしまった出来事です。
説明の際に「2回目は平さんによる焼討」とお話されていました。
個人的に『たいらさん』がとても印象に残りました😅
現地説明会では地層のどこが1~3回目か説明してくださいました。
赤っぽい層が焼けた土、その上に色々な物が焼けた黒っぽい層になっているそうです。
説明をきいてやっと微妙な色の違いがわかるくらいでした。
◆1回目 延喜17年(917)
◆2回目 治承4年(1180)12月28日
川もあれば鹿も歩いて流れていった土もあるとか。それでも、重衡卿、通盛卿が南都に来た痕跡ですよ!!
◆3回目 永正5年(1508)
1、2回目の火災跡は、僧坊は再建され礎石の跡は動いた形跡がないそうなので、同じ場所に柱が建てられたと想定できるそうです。
しかも僧坊に使用される礎石としてはかなり大きいということでした。
3回目の火災後は再建されることなかったので瓦などの破片がそのまま残されて長い年月をかけ埋もれたとお話されていました。
そのまま残っていてこの目でその痕跡を確認することができたことに感謝です。
再建されなかった理由はその時代には塔頭が増え、僧坊が必要なくなっていたからだそうです。
説明されていた方がとてもきさくな方だったので一通り説明が終わった後は質問大会と化していました。
見学に来られていた方々の疑問が止まらない、止まらない。熱心さがうかがえますね。
景観整備のための工事を行うために調査され、埋め戻すそうです。
昨年調査された場所は足場が悪く、一般公開はなかったとのことでしたので貴重な機会でした。
関係者の皆様、本当にありがとうございました。