倶利伽羅峠合戦に出陣した木曽義仲の愛妾・巴と葵。
葵はこの戦で討死。巴はこの戦の後も義仲と共に戦い続け、翌年、義仲が討たれた粟津合戦では逃され、その後は様々な伝説が生まれています。そして晩年、この周辺まで戻ってきて生涯を閉じたとされています。
※観光案内所の方のお話では熊の目撃情報があるそうです※
柵の奥に塚があります。
葵塚・巴塚古墳群は、標高約85mの丘陵先端部に立地し、円墳と方墳から成る。
古墳群は形態や立地条件から、約1,400年前の古墳時代の終わり頃に築造されたと考えられる。
この古墳群に、いつの頃からか「葵塚」と「巴塚」の伝承を重ねて、現在の石碑が建てられたものと見られる。
古墳が立地する丘陵では、今から約800年前の平安時代末に、源平合戦が繰り広げられた。
この戦いは「倶利伽羅の戦い」と呼ばれ、源義仲(木曽義仲)は燃えさかる松明を角につけた牛500頭を敵陣に突入させる、世に名高い「火牛の計」を用いて、人数では劣勢であったが勝利を納めた。
葵と巴はともに義仲の愛妾であり、武将であった。
葵は倶利伽羅の戦いで討死し、巴は義仲が討たれる日まで戦い、後に尼になり91歳の生涯を過ごした。
古墳の詳細
1号墳:円墳 直径25m、高さ約7.5m
2号墳:方墳 東西約13m、南北約11m
高さ1~2m
3~5号墳:直径約5m前後の円墳と考えられる。
富山県教育委員会
小矢部市教育委員会
左側はため池です。
この辺りは舗装されていませんが、歩きやすいように小矢部市が土の下に砂利を敷いてあるそうです。
■碑文
巴は義仲に従ひ源平砺波山の戦の部将となる。晩年尼となり越中に来り91歳にて死す
■由来
源平合戦の後、和田義盛と再婚した巴御前は豪勇を誇った朝日奈三郎義秀を生んだが、その後未亡人となり後生を福光城主の石黒氏に託した。
石黒氏とは共に倶利伽羅合戦において平軍を攻めた親しい間柄であった。
尼となり兼生と称し宝治元年10月22日没し石黒氏が此の地に巴葵寺を建立したと伝えられている。
塚にも同じ内容の文章が刻まれています。
上記文中の巴葵寺の後は残っていませんが、跡地を示す碑が巴塚と葵塚の間に建てられています。
そして数メートル離れたところに葵塚があります。
葵塚は少し高いところにあります。
■碑文
葵は寿永2年5月砺波山の戦に討死す。
屍を此の地に埋め墳を築かしむ。
■由来
葵は義仲の部将となり、倶利伽羅の戦に討死したので屍をこの地に埋め弔ったと伝えられている。
以前は両塚に墓標となるすらっと伸びた松の木があり、当時の写真が小矢部市史に掲載されています。小矢部市史は石動駅直結の図書館でどなたでも読むことができます。
墓標の松跡は葵塚のすぐ後ろです。
塚である碑は2024年元旦の地震で倒れてしまったそうです。市の職員の方がすぐに確認に来られたのもすごいですが、早急に元の状態に戻されたのはやっぱり大切にされている証拠だと感じました。