治承4年12月28日の平家と南都の僧兵が戦った、南都焼討で東大寺は大仏殿を含む広範囲が炎に包まれました。
その中で被害を免れた建物の一つが東大寺 転害門。
壇ノ浦合戦から10年後の建久6(1195)年3月、東大寺大仏殿落慶供養に参列しにきた源頼朝を狙う平景清が隠れていたことから別名「景清門:かげきよもん:」とも呼ばれています。
②近鉄電車「奈良」駅徒歩20分
平家物語覚一本「奈良炎上」の段では坂四郎永覚:さかのしろうようかく:という僧兵が転害門から討って出て、平家軍からしばらく防御していた様子が描かれています。
この永覚という人物は七大寺、十五大寺のなかで一番の剛の者でしたが、一緒に戦っていた僧兵たちが討たれてしまったので永覚も南へ落ちて行きました。
歩道に面した碑。
東大寺は平安末期の南都焼討だけでなく戦国時代にも戦火に見舞われています。
しかし、この転害門は二度とも無事で東大寺旧境内として、国の史跡に指定されています。
■史跡 東大寺旧境内
東大寺は、聖武天皇が国家の安泰と繁栄を祈るために建立された寺で、その規模の雄大なことは、世界に比類がなく、平城京と並んで奈良時代を代表する史跡である。
創建後の変遷はあったが、大仏殿(江戸時代国宝)を中心として北方に大講堂跡、僧坊跡、食堂跡、正倉院(奈良時代)南方に南大門(鎌倉時代国宝)法華堂(三月堂奈良時代国宝)西方に戒壇院があっていまなお盛時の姿をしのぶことができる。
境内もきわめて広大で平地部から山間部にわたり現境内よりはるかに広かった。
西端は平城京の東京極路で現在の手貝通りに面し、これいに沿って転害門(奈良時代国宝)中門跡、西大門跡等があり他の三面もまたその旧規をとどめている。
史跡東大寺旧境内は、この奈良時代の境内の姿を保存するために昭和7年7月23日に国の史跡に指定されたもので歴史上価値の高いところである。
東大寺大仏殿の参拝者の多さとは打って変わって静かな転害門ですが、11月3日は転害市が開催され賑わっていました。(2018年と2019年の転害市は確認済。毎年開催されている?)
バス停「手貝町:てがいちょう:」の真ん前です。
景清は伊藤忠清の子で本来は藤原景清ですが、平家に仕え最期まで平家再興を願って頼朝暗殺の機会を狙っていたこともあり、平景清と呼ばれています。
この景清の作戦は失敗し、捕らえられ自ら命を絶ったという話もあれば、逃げ出したともいわれ、各地に伝説を残しています。
■謡曲「大仏供養」と転害門
謡曲「大仏供養」は、平家の遺臣悪七兵衛景清が源頼朝を襲撃しようとしたことを描いた局である。
景清が京都清水寺に参籠している時、頼朝が東大寺大仏供養に参列することを聞き、ひそかに奈良に来て、母に会ってそれとなく別れを告げた後、白張浄衣の姿に身をやつして転害門に隠れていたが、頼朝の臣に見破られたため、時節を待つことにして、若武者たちを切り払って立退いた。というのがその粗筋である。
転害門は、東大寺の西大垣の北寄りに、佐保路に面して開けられた門で、天平の雄渾な様式をいまに伝える三間一戸、本瓦葺、切妻造八脚門である。
東大寺の鎮守手向山八幡宮の転害会がここをお旅所としたところから転害門と呼ばれ、また、佐保路門あるいは景清門とも呼ばれる。
※この解説板は2018年ころ設置されました
景清の母が祈ったと伝わってきた景清地蔵は東大寺から徒歩約30分の新薬師寺に安置されています(非公開)
高畑町 | 景清地蔵と呼ばれる地蔵を安置(非公開) 新薬師寺 >> |
平(藤原)景清 |
転害門に隣接して奈良市きたまち転害門観光案内所もありますので奈良散策の情報を得られると思います。
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平重衡 後白河天皇 源頼朝 |