平家に仕える妹尾太郎兼康が造ったとされる堰は受け継がれ、現在ではこのような姿になっており、側には記念碑が建てられています。
国道180号線沿いにあり、宝福寺入口交差点から東へ入ると広場の入口があります。
地図を貼っておきます。
180号線側からみると記念碑あることがわかりにくい…。写真の左側にある横断歩道の信号の向こう側へ向かいます。
一角に説明板が設置されています。
県下でも最大の灌漑規模と古い歴史を持つ湛井十二ヶ郷用水(以後、十二ヶ郷用水)の起源は不明ですが、平安時代にまでさかのぼるといわれ、伝承によれば、平安時代末期の武将・妹尾太郎兼康(以後、兼康)により改修されたと伝えられています。
兼康は、備中妹尾郷に所領をもち、その所領の田に水を引くため、湛井堰の築造と用水路の改修を命じました。
兼康は、堰の位置をどこにするか悩んでいましたが、ある日高梁川を眺めていた兼平の目に、白蛇が川を横切り向こう岸に渡るのが見えたため、その場所に堰を造り、湛井堰を完成させたという伝承が残っています。
十二ヶ郷用水の主な水路についても、兼平が馬に乗って各地を回り、用水路に適した箇所に目印の竹を立て、水路を掘らせたという伝承が残っています。
平氏方の武将であった兼康は、源義仲との戦いで果敢に戦いましたが敗れ、勇ましく戦死しました。
湛井堰を見下ろす権現山の山腹には、湛井堰と用水の守護神である井神社と兼平を祀った兼平神社があります。
十二箇郷の人々は、用水の恩人として兼康を祀り、また、毎年、井神社では、初堰祭として用水路への豊富な通水と豊作を祈願する祭祀がとりおこなわれています。
そもそも、湛井堰のできる前には、湛井より少し高梁川を下った(約六百メートル下流)、字六本柳という取水の堰があったといわれています。
十二ヶ郷用水はいつごろ造られたかは分かりませんがおそらく字六本柳の堰があったところは、古代の高梁川が東へ分流する分岐点であったと考えられ、その古代の川筋を利用して用水路が造られたと考えられています。
平安時代の初めに、堰を修理する費用を国が出したという記録が残っていることと、服部郷図という古代の服部地区を描いた絵図には用水路が描かれていることから、おそらく平安時代には十二ヶ郷用水の原型となるものがあったと考えられます。
(中略)
現在の十二ヶ郷用水は昭和30年に農業用水の貯水を目的に完成した小阪部川ダム(新見市)からの放流と水路改修により安定した通水が行われています。
そして農業用水としてだけではなく、生き物の生息の場、雨水や生活排水、防火用水などの多面的な機能も果たしながら、長い歴史と共に地域の財産として受け継がれています。
左上の兼康のイラスト。
文中に度々登場する高梁川。
駅からは徒歩30分前後の場所ですが、眺めが良いです。
写真ではわかりにくいですが、鷺などの鳥が多数川にきています。
妹尾兼康は平家軍として幾度も合戦に出陣しましたが、倶利伽羅合戦では生け捕りになりました。
平家軍に戻れる機をうかがいながら、うまい理由をつけて所領の備中に木曽義仲軍を呼び、最初に数人を討ち取りました。
それが木曽義仲に伝わると今井兼平は何度も斬るべきだと進言したのにと悔しがります。
最終的に兼康自身も息子も討たれてしまうのですが、木曽義仲は惜しい者を失ったと兼康を称賛しているのが平家物語に描かれています。
戦だけではない、兼康の事業を感じながらこの地を訪れてみるのはいかがでしょうか。
②JR「豪渓」駅から南へ」35分
https://www.pref.okayama.jp/page/269434.html
徒歩5分の妹尾兼康を祀る兼康神社もおすすめです。