法然上人の生誕地に蓮生法師(出家した熊谷直実)が寺院を建立したのが誕生寺です。
浄土宗を開いた法然上人には平重盛が帰依し、平重衡に授戒をするなどこの時代の多くの人々が関わりました。
弟子には熊谷直実や平重盛の孫・源智上人などがあげられます。
また、法然上人の御両親の法要が毎年4月の第3日曜日に開催され、練供養をみるために多くの参拝者で賑わいます。
このページでは
・念佛橋
・娑婆堂
・誕生寺
・法然上人御両親御追恩レポート
について記載しました。
最寄り駅はJR誕生寺駅。誕生寺まで徒歩約20分です。
電車は1時間に1本程度。
駅の名所ガイドとしても紹介されています。
「左 誕生寺道」と刻まれた石碑が駅前に。
案内がところどころにあるため、迷う心配は少ないです。
誕生寺までの道中に2箇所紹介したい場所があります。
まず一つ目。
誕生寺駅から徒歩約15分。
ここは熊谷直実が法然上人の誕生の地まで来れたことに感極まって念仏を唱え続けたと云われる場所です。
法然上人のお弟子となった源氏の荒武者・熊谷次郎直実は建久4年(1193年)法然上人御自作の御木像(現在誕生寺の御本尊)を背負って、熊谷入道自らの弟子数人を連れて、はるばる上人の御誕生地であるこの地にたどり着き、上人のかつての館を目前にして、到着の喜びとその感激に号泣してこの橋の上で、天地も裂けんばかりに念佛を唱えつづけたと伝えられる橋で、それ以後この橋を熊谷入道の念佛橋という。
久米南町文化財保護委員会
その斜め向かいに大きく聳え立つ塔のようなものが見えました。
2つ目に紹介したいのがこれです。
二十五菩薩練供養お旅所
(岡山県無形文化財)
毎年4月第3日曜日、法然上人御両親追恩供養「会式法要」が奉修されるにあたり、西方の誕生寺御影堂を浄土になぞらえ、この娑婆堂を現世にたとえ「二十五菩薩大練供養」が行われる。
当日は多くの参拝者の念仏の声の中で壮厳なる来迎曼陀羅が現世に示現された情景を拝す。
※法然上人御両親追恩供養については後述します。
後ろ側には「平成23年 法然上人800年大御忌」
その他
そして西へまっすぐ進むと5分ほどで誕生寺に到着です。
4月の第3日曜日、法然上人の御両親の法要の日に合わせてお参りしました。
法要ですが屋台が立ち並び大勢の人で賑わうお祭りのようでした。
2016年4月17日の写真です。
https://www.tanjoji.or.jp/life.html
1歳
長承2年4月7日(1133年)
誕生
9歳
保延7年3月(1141年)
定明の夜襲により父と死別
15歳
久安3年2月(1147年)
比叡山に旅立つ
久安3年秋
母が病没
43歳
承安5年春(1175年)
浄土宗開宗
80歳
建暦2年(1212)1月25日
入滅
境内の紹介も兼ねて法然上人の生涯をみていきたいと思います。
■御影堂(本堂)
先ずは法然上人と両親、蓮生(熊谷直実)と誕生寺の関係について。
御影堂の位置はかつて890年前、美作の豪族、漆間時国公:うるまときくにこう:、秦氏君:はたうじきみ:夫婦の館であった。
時国港は久米の押領使:おうりょうし:(その地方の治安維持を任務とした役)で長承2年の4月7日(1133年)に2人の間にのち浄土門開祖・法然上人(幼名 勢至丸)が誕生され、上人が幼少9歳まで御両親とすごされた場所である。
開山は上人の弟子、熊谷蓮生法師:くまがいれんせいほうし:で現在の御影堂は元禄8年3度目の再建である。
御本尊は法然上人43歳の御自作像で、熊谷入道が上人61歳の時、師の命により上人御両親の墓前に安置されたもので、のちの代、後光と蓮台をそえ当山の御本尊として今日に至っている。
■両幡の椋:ふたはたのむく:(三代目)
法然上人の誕生について。
■産湯の井戸
■片目川
法然上人9歳のときに定明:さだあきら:という者が夜襲をかけました。
片目の魚が現るようになったと伝わるのはこのことがかっきかです。
奥に見えるのが次に紹介する勢至堂です。
■勢至堂
法然上人の父・時国は重傷を負いながらも法然上人に敵討ちをしないよう遺言を残しこの世を去りました。
法然上人御両親御霊廟
父君
漆間時国公菩提院殿源誉時国西光大居士
保延7年3月19日命終御齢43歳
母君 秦氏君
解脱院殿空誉秦氏妙海大法尼
久安3年11月12日命終御齢37歳
保延7年春3月、稲岡庄預所:いなおかのしょうあずかりどころ:明石源内武者定明:あかしげんないむしゃさだあきら:は漆間一族との対立関係から突然の夜襲に及んだ。
時国公は深手をおい、吾子9歳の勢至丸に定明を敵として追うことを戒め、出家して自からの解脱を求める様、遺言され43歳の人生を終えられた。
9歳より奈義の菩提寺に修行し15歳に成長した勢至丸は、久安3年の春、比叡山に登るため母に別れをつげた。
その秋、37歳の若き身をもって母・秦氏君は病没された。
父・時国公の尊い遺言、母・秦氏君との決別、かくして万民救済の念仏元祖、法然上人が世に送り出されることとなったのである。
■旅立ち
6年後、15歳になった法然上人は比叡山へ登り天台宗の教えを学びます。
■旅立ち像の後ろの守護大仏
■逆木の公孫樹
旅立ちの時に法然上人が杖としていたイチョウの枝をこの地にさすと根が上に伸び逆木の公孫樹:さかきのいちょう:と呼ばれています。
■祈り
旅立った法然上人の無事を祈る母の像。しかし同じ年の秋にこの世を去りました。
久安3年(1147年2月12日)春、比叡山へ旅立った勢至丸(せいしまる、法然上人15歳)の無事を祈る母・秦氏:はたうじ:様(久安3年11月12日没・37歳)の御尊像。
法然上人八百年大遠忌お待ち受け記念として
浄土宗 寺庭婦人会 建立
【台座の裏面】
「秦氏さま」ご尊像建立に寄せて
宗祖・法然上人八百年大遠忌に際し、浄土宗寺庭婦人会では、法然上人御母君「秦氏さま」のご尊像をここ誕生寺に建立し、改めてご遺徳を偲び末永く顕彰申し上げることと致しました。
秦氏さまの勢至丸様に寄せられた深い愛と比叡山に向かってのひたすらな「祈り」のお姿を道標とし、願わくばこの殺伐とした社会が潤いある豊かな報土とならんことを切望いたします。
■奥の院 浄土院 六角堂
法然上人御両親菩提所です。
當院は法然上人御生家漆間家の菩提寺で貞観4年(西暦862年)平安の初期比叡山延暦寺第三代座主弥陀念佛の祖・慈覚大師を勧請開山上人と仰ぎ開創された。
その当時は現在の誕生寺(元 漆間邸宅)の前にあって、遍く十方檀信徒の帰依篤く欣求浄土:ごんぐじょうど:の崇信をあつめていた。
建久4年(西暦1194年)熊谷蓮生法師により、漆間家舘が、寺院に改められた際、浄土院は誕生寺と称するようになった。
当時現在地に岡の坊と称する塔頭寺院があったものを元和年中(江戸初期)心●●●大徳により浄土院を復興し現在に到ったものである。
堂内には法然上人御自筆になる御両親様(時国公、秦氏君)霊●が祀られている。
昭和57年宗祖・法然上人御生誕850年慶●会を迎えるに当り、上人御両親御遺徳顕彰、追御菩提のため、新たに六角堂霊牌殿を建立した。
本尊阿弥陀如来は慈覚大師御作
※●は読めませんでした
これが六角堂です。
正式名称は「法然上人御両親御追恩二十五菩薩天童迎接練供養会式大法要」だそうで、毎年4月の第3日曜日には法然上人の両親の供養のための法要が行われ大変な賑わいをみせています。
↓開始時間などは誕生寺ホームページの「誕生寺お会式について」でご確認ください。
10時~様々な行事があり、どれも見学自由です。全て終了するのは16時ころ。
https://www.tanjoji.or.jp/eshiki.html
■百万遍大念珠繰り
多人数で念珠を手繰っていきます。
■法然上人ご両親ご追恩大法要
■二十五菩薩練供養
日本三大練供養の一つだそうで、この日はとある役の方が参列出来なくなり、代わりの人を探している放送が流れていましたが無事見つかったようです。
誕生寺へ戻り、読経で全て終了の様子でした。
初参拝だったため、見逃した行事も多々あったことを後から知りました。
また機会を改めて参拝、報告したいと思います。
ちなみに20年ほど前までは曜日関係なく日にち固定だったと地元の方からうかがいました。
誕生寺から徒歩約1分、北へまっすぐ行くと正面に石碑が見えてきました。
『法然上人の遺徳を偲ぶ鐘の音 七面山』
この石碑については詳しいことは分かりませんでしたが、七面山は誕生寺駅から1駅南の弓削のあたりにある山のようです。
誕生寺はその他にもみどころ多数です。
しっかり時間をとって参拝されることをお勧めします。