解説板などもなく碑があるのみのこの場所に以仁王:もちひとおう:の御所がありました。
各地の碑には後ろに建立日などが刻まれていることがありますが、確認もできない状態です。
以仁王は後白河法皇の子供として仁平元年(1151)に誕生し、学才にも優れていました。
三条高倉に住んでいたため、「高倉宮」ともよばれます。
以仁王の異母兄弟の高倉天皇。高倉天皇の母・建春門院から妬まれ、また、甥の言仁親王が安徳天皇となったため以仁王は皇位継承の望みはが絶たれ、そこに源頼政が平家を討つために令旨を出すように持ち掛けてきました。
※高倉天皇と高倉宮を混同している人がいるようですが、高倉天皇と高倉宮(以仁王)は異母兄弟です。
安徳天皇は平清盛の孫。
平清盛は後白河法皇を幽閉し、さらに孫を天皇にして世の中を思う通りにしていたため、反感を買っていました。
頼政は不遇の以仁王と組もうとしたのです。
平家物語覚一によると頼政の嫡子・仲綱の愛馬「木の下」を平宗盛が奪いとった挙句、木の下を「仲綱」と呼び侮辱したことが動機とされています。
一方、以仁王は幼いころに天台座主の最雲(以仁王からみて祖父の兄弟)に預けられていましたが、最雲が亡くなった後に還俗。
相続した城興寺領は還俗とともに天台宗総本山の延暦寺に返還するように求められており、結果として平清盛が没収。
平家によくない感情があったことが読み取れます。
以仁王の令旨は源行家により各地の源氏に届けられ、伊豆に流されていた源頼朝や木曽で育っていた源義仲(木曽義仲)の挙兵のきっかけとなりました。
しかし、このことが平家にもれ、以仁王は園城寺(三井寺)に逃亡し、園城寺も以仁王を受け入れました。
そして園城寺は比叡山延暦寺と興福寺に協力を求める牒状(書状)を送りました。
興福寺は協力することにしましたが、延暦寺は末寺の園城寺が対等な態度とっていると納得がいかず、また、平家が延暦寺を懐柔するために米や絹などを送っていたこともあり返事もしませんでした。
園城寺では夜討ちを仕掛けるつもりが、会議を引き延ばした阿闍梨がおり、出発したものの平家のいる六波羅への到着は明るくなるころでそれでは勝ち目はないと悟り、興福寺へ向かうよう変更。
以仁王は乗馬になれておらず落馬を何度もし、休んでいた平等院まで追ってきた平家と宇治川で戦いが始まりました。
これが平家物語覚一の『橋合戦』です。
平家軍の大将軍には平知盛、平重衡、平行盛、平忠度。侍大将には伊藤忠清、藤原忠綱、藤原景家、藤原景高、平盛嗣などの名が挙げられています。
これにより源頼政と息子の仲綱、養子の兼綱、仲家たちは命を落とし、以仁王は興福寺を目指し南下している途中、現在の京都府木津川市の綺田:かばた:にあった光明山寺付近で矢に当たり首を取られるといる最期を迎えました。
以仁王に味方した興福寺の僧たちの先陣は木津まで来ていて、あと五十町ほどだったそうです…(平家物語より。五十町は約5.5km?木津川あたり??)
高倉宮趾から南東へ徒歩3分。
館内に以仁王の御所やこの地の歴史について触れた解説板が立てられています。
当館の所在地は、平安京の左京三条四坊四町にあたります。
ここが歴史上よく知られるのは、平安時代末、後白河法皇の皇子・以仁王:もちひとおう:の御所 高倉宮:たかくらのみや:であったときです。
王の平家追討の旗揚げは、平家物語に詳しく語られます。
その後この地には、尼寺の曇華院が営まれ、そして明治時代には郵便局や日本銀行京都支店ができました。
平安時代以来、この地ではずっと人の活動が続きます。
この歴史の厚みを示すのが土の堆積です。
平安時代の人々が暮らした地面は、およそこの庭の深さあたりでした。
博物館東側の通りは「高倉通」です。以仁王=高倉宮の名を今も偲ぶことができる地名ですね。
http://www.bunpaku.or.jp/
近くにこられた際は立ち寄ってみてはいかがでしょうか?