治承5年 閏(うるう)2月4日、熱病により平清盛公死去。
平家の郎等・平盛国の邸で最期を迎え、現在の京駅から東へ約1km弱の場所だったと考えられています。
そしてこの地は清盛の甥で安徳天皇の父である高倉天皇の生誕地でもあります。
略系図
この地はもと平安京八条大路と鴨川の交点近くで、条坊表記では左京八条四坊一三町にあたります。
この付近で平清盛は六十四年の生涯を閉じたと考えられています。その最期のシ-ンは、「平家物語」によってよく知られます。熱病にうなされながらも台頭する政敵源頼朝の追討を望み、その首級を墓前に供えよと遺言するものです。
清盛終焉の場所については、鎌倉幕府が後世にまとめた記録「吾妻鏡」の治承5年閏2月4日条(1181年)に記載があります。
それによると、「九条河原口の盛国が家」だとあります。これは清盛の家司(けいし)、平盛国亭(邸)と思われます。
平盛国亭とすれば、ここではほかにも重要なできごとがありました。
それより二十年さかのぼる永暦2年9月3日(1161年)、後白河上皇の第七皇子憲仁親王が産まれています。
のちの高倉天皇です。生母は女御平滋子(建春門院)で、清盛の正室時子の異母姉妹にあたります。清盛が天皇の外戚となるきっかけを得た地といえましょう。
さて憲仁親王(高倉天皇)の誕生を伝えた同時代の廷臣(ていしん)中原師元(なかはらのもろもと)の日記「師元朝臣記(もろもとあそんき)」によれば、平盛国亭は「八条河原」にあったと記されています。
先の「吾妻鏡」の記載と異なります。どう理解すればよいのでしょうか。
歴史学の方法では、のちの関東(鎌倉)でまとめられた記録より、同時代に平盛国亭と身近に接していた廷臣の日記の方が、史料価値は高いと判断されます。
そのため、現段階では「九条は八条の誤記」というのが有力です(高橋昌明氏「清盛家 家政の一断面」、笠井昌昭氏編「文化史学の挑戦」587頁、思文閣出版、2005年)。
当地を清盛終焉の地と認識するのは以上の理由からです。
この地は平家のふたつの邸宅群、六波羅地区と西八条地区のほぼ真ん中にあたり、両者に目配りをするには好都合だったのかもしれません。
なおその遺骸は「平家物語」によれば洛東愛宕(おたぎ)(現東山区六道珍皇寺付近)で火葬され、摂津国経の島(現兵庫県神戸市兵庫区切戸町付近)、「吾妻鏡」によれば山田の法華堂(現神戸市垂水区西舞子付近)に納骨されました。
当地は歴史や文学の重要な舞台地にほかならず、永くこれを顕彰するため建碑いたすものです。
特定非営利活動 法人京都歴史地理同好会
平清盛が亡くなったのは閏2月4日、現代の暦にはない「閏月」について簡単に…
当時の暦は月の満ち欠けを基準にし、1ヶ月が29日か30日で構成される太陽太陰暦で、現在と違って31日は存在しませんでした。
そのため1年が約355日となり、数年に一度1ヶ月増やして調節する必要があり、1年が13ヶ月ある年ありました。
その増やした1ヶ月が『閏』がついた月です。「13月」という表記ではないんですね。
清盛公の亡くなった年は
1月
2月
閏2月
3月
4月
~
12月
となります。
どの月の後ろに増やすかも年により異なり、例えば平家が勝利した寿永2年(1183)水島合戦は閏10月1日でした。
平家物語覚一本による清盛発病前後の出来事です。
2月23日 | 公卿の僉議にて平宗盛、源氏追討のために東国へ出陣決定 |
2月27日 | 平清盛発病。宗盛出陣の日であったが中止 |
2月28日 | 清盛、病状悪化 |
閏2月2日 | 遺言。「頼朝の首を見なかったことが遺恨。仏事供養などせず頼朝の首を刎ね墓前に供えよ。」 |
閏2月4日 | 死去 |
発病してから水さえ飲めずに暑さに苦しみ、比叡山の千手井の水を運んできて身体を冷やしたがすぐに湯になってしまう様子が平家物語に描かれています。
再現(?)の場面は香川県の高松平家物語歴史館で展示されています。
平清盛の終焉推定地、高倉天皇 誕生地の説明板には平家の人々の邸宅地も書かれています。
現在の地と重ね、当時を偲びながら京都散策も楽しいですね。