平忠度は平忠盛の六男で清盛の末弟です。
天養元年(1144)に生まれ兄の清盛とは26歳離れています。
甥の重盛より6歳若く、甥たちと共に出陣することが多かったようです。
この碑の後ろ側に書かれているのが忠度の父と母のこと、熊野で過ごしたことなど。
こゝ音川の地は薩摩守 平忠度生誕の地であると伝えられる。
父は鳥羽上皇に仕え、上皇の熊野御幸のお供をし、又上皇が建立された三十三間堂の建設にも関わったという平忠盛。
母は鳥羽上皇の御所に仕えていた熊野別当 湛快の娘 浜の女房(女官)といわれ、忠盛と結ばれたのち熊野に帰り、音川の橋爪氏の館で忠度を生んだと伝えられるのがこの場所である。
忠度は18才迄熊野で過ごし、熊野参詣に来た兄の清盛に伴われ京都に上ったと伝えられる。
熊野川町建立
忠度18歳というと永暦2年(年半ばで改元して応保元年。1161年)ころ、兄の清盛は44歳。
平治の乱から1年以上が経ち、これから平家全盛期に向かっていくときです。
清盛と忠度の初対面はいつごろだったのでしょう?
碑の横には平家物語の都落ちや一ノ谷合戦の忠度について。
薩摩守平忠度は文武両道に優れた武将であったと言われるが、平家物語から忠度に関連する記述を抜粋してみると
「鱸」の章に浜の女房(女官)の歌として
「雲井よりただもりきたる月なれば おぼろげにては いはじとそ思う」とある。
「忠度都落」の章によると、平氏一門と共に都落した彼は淀の川尻から京に引き返し、歌道の師・藤原俊成の門を叩いて遺詠を渡した後京を去っていった。
その歌「さゞ浪や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」は、後に千載集に「故郷花」という題で詠み人知らずとして入れられている。
「薩摩守最後」の章によると、薩摩守は「熊野そだち早業の大刀にておはしければ」とあるが、寿永3年2月7日、一の谷の合戦に利なく敗走する平氏軍の中で忠度は武蔵国の住人・岡部六弥太と組み合って六弥太を組み伏せ、その首を掻こうとした時、背後に殺到した六弥太の郎党が、忠度の右腕を切り落とした。
もはやこれまでと「そこのき候らへ、十念唱へん」と組み敷いていた六弥太を投げ飛ばし、どっかとすわり十念を唱へ従容として最後をとげたが、彼の箙に次の一首が結ばれていたという。
「行き暮れて木のしたかげを宿とせば 花やこよいのあるじならまし」
相須の甲明神社に若宮として平忠度をお祀りしている。
熊野川町教育委員会
文末の「相須の甲明神社」はここから北西へ徒歩約40分です。が、途中から木々に囲まれた舗装された道を進むため徒歩だと心細いかも。
生誕地の碑から続く階段をのぼると若宮神社がありました。
忠度と関係があるのか不明ですが、写真だけ載せておきます。
↓熊野御坊南海バス公式ホームページ
https://kumanogobobus.nankai-nanki.jp/localbus/
熊野川がすぐそこです。