ここで起きたあることがきっかけで平清盛が忠盛の息子となった経緯が伝わっています。
②阪急「河原町」駅徒歩10分
忠盛燈籠は本殿東側、悪王子神社のすぐ近く
永久年間の頃(十二世紀)白河法皇が祇園女御の許に赴かれようとしてこのあたりを通られた時、折しも五月雨の降る夜で前方に鬼のようなものが見えた。
法皇は供の平忠盛に討取ることを命じられたが、忠盛はその正体を見定めての上とこれを生捕りにしたところ、油壺と松明とを持ち燈籠に燈明を献ろうとしていた祇園の社僧であった。
雨を防ぐ為に被っていた蓑が灯の光をうけて銀の針のように見えたのであった。
忠盛の思慮深さは人々の感嘆するところであったと云う。この燈籠はその時のものといわれている。
平家物語(覚一本)によるとこの解説に書かれている出来事がきっかけで白河法皇は寵愛する祇園女御を忠盛に下賜したと云われます。
その際に祇園女御は白河法皇の子供を身ごもっていて、女児が生まれたら法皇の子供として、男児が生まれた忠盛の子供として武士に育てよと言われました。
生まれた子は男児で、後の平清盛です。
また、「清盛」の由来は夜泣きがひどいと聞いた法皇が詠んだ歌
夜泣きすと ただもりたてよ 末の代に きよくさかふる こともこそあれ
(夜泣きしても忠盛よ、大事に育てよ。後に清く盛えて繁栄することがあろう)
これによって「清盛」と名乗ることになったと書かれています。
しかし、祇園女御のもとに通う白河天皇は祇園女御の妹も寵愛するようになり、滋賀県にある「胡宮神社」から発見された「仏舎利相承図」によると、清盛の母は祇園女御の妹と記されているそうです。
今となっては本当のことが分からないだけに、色々な説が存在し、想像がかきたてられますね。
八坂神社(当時は祇園社)の境内で今から865年前に平清盛に関わる乱闘事件がありました。
時は久安3(1147)年6月15日、祇園臨時祭(祇園御霊会、現在7月24日に行われている還幸祭の翌日に当たり、朝廷から奉幣が行われた)の日の事。
中務大輔平清盛は心に秘めた宿願を果たさんと、祇園社に田楽を奉納します。
この田楽を守護していたのが清盛の郎等達、兵仗を帯び祇園社へと赴いた彼らにこの後思わぬ事態が待ち受けています。
郎等はその要求を受け入れず、ついには乱闘へと発展、祇園社の権上座隆慶をはじめ負傷者まで出る始末。
乱闘騒ぎは深夜にまで及びさらにこの後も尾を引きます。
6月26日になって祇園社の本寺であった延暦寺はこの乱闘の事を訴えます。
これに対し播磨守平忠盛は乱闘の下手人7人をすぐさま検非違使に引き渡します。
事態はこれで収拾するかに思われましたが、延暦寺衆徒らの怒りは治りません。
28日、延暦寺の衆徒と日吉・祇園両社の神人は清盛と父・忠盛の流刑を訴え神輿を担いで入洛しようとします。
神々の神意の体現とされた神輿の動座を伴う強訴(神輿振り)は当時人々に大変恐れられていました。
これに対し鳥羽法皇は「道理に任せ裁許する」と回答し、ひとまず彼らを帰山させます。
しかし中々裁許は出ません。
洛中には衆徒らが再び入洛しようとしているという声が頻繁に聞こえてきます。
事件の実検などを行った法皇が、清盛の罪を決したのは8月5日になってのことで、その内容は贖銅(実刑に代わり銅を納めること)という軽いもの、忠盛・清盛と鳥羽法皇との関係の深さを物語る歴史の一幕でした。
さて、乱闘事件の顛末では平忠盛・清盛父子を擁護した鳥羽法皇は、祇園の神に対する謝罪を何度も行っています。
中でも久安4(1148)年2月20日には法華八講が修され、これが当社における法華八講の初見となりました。
平成24年壬辰記
ちなみに2006年に訪れた時は祇園社乱闘事件の解説はありませんでした。
大河ドラマ「平清盛」の頃から各地で解説板が増えたり、新調されていて嬉しく感じました。