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崇徳院地蔵<京都府京都市>

保元の乱に敗れ、讃岐に流され非業の死を遂げた崇徳院。
京によくないことが続くのは崇徳院の祟りと恐れられ、霊を鎮めるための地蔵はいつしか「人食い地蔵」と呼ばれるようになり、積善院準提堂(しゃくぜんいんじゅんていどう)境内に祀られています。

崇徳院地蔵

住所
京都市左京区聖護院中町14
交通
京阪「神宮丸太町」駅徒歩15分

参拝について
無料
参拝目安時間
15分~
お気に入り度
★★★☆☆
参拝日
2013/09/21、2017/06/13
備考
解説板より
崇徳上皇の怨念をしずめる
崇徳院地蔵(人食い地蔵)

崇徳院上皇は保元の乱に敗れ、弟の後白河や平清盛によって讃岐に流罪とされた。赦免も叶わず1164年上皇は都を呪いながら没した。
その頃都では大火、疫病、飢饉が続き清盛も高熱の中で死んだ。これらを上皇の祟りと恐れた都人が慰霊の為に崇徳院地蔵(すとくいんじぞう)を建立したが、おそろしい出来事を背景に発音が似ている事からいつしか「人食い地蔵」と言われる様になった。

人食い地蔵の由来

保元の乱とは…

簡単にまとめると保元元年(1156)7月に起こった皇位継承をめぐる政権争い。
7月2日に鳥羽法皇が崩御したことをきっかけに、鳥羽法皇の第一皇子の崇徳上皇派と、第四皇子の後白河天皇派が鴨川を挟んで対立。
7月10日に後白河天皇派から夜襲で、崇徳上皇派の敗北。実は崇徳上皇派からも夜襲の案は出ていたが、藤原頼長が反対したため却下となったのが敗北の原因と云われています。

※崇徳上皇は鳥羽法皇の子ですが、本当の父は鳥羽法皇の祖父・白河法皇と噂されていたため、鳥羽法皇は崇徳上皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていました。白河法皇から崇徳上皇は可愛がられ天皇になりましたが、白河法皇崩御後は鳥羽法皇から退位させられ、崇徳上皇の第一皇子・重仁親王の皇位継承の道も絶たれ不満が募っていました。

保元の乱相関図

崇徳院地蔵

父の鳥羽法皇から忌み嫌われ、京に戻ることも叶わず配流先の讃岐で崩御した崇徳上皇の人生。当時の人々が祟りだと考えるのも不思議ではありません。
「人食い地蔵」と呼ばれていても、とっても穏やかな顔のお地蔵さんです。
崇徳院地蔵

境内入って左奥にひっそりと佇んでいます。

積善院準提堂

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崇徳院地蔵

参道にある積善院準提堂の由緒
積善院準提堂

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