源頼朝の信頼あつい畠山重忠と遊女の悲しい恋の話しが伝わる池です。
畠山重忠は現在の埼玉県出身で父・畠山重能が平家に仕えていたこともあり、源頼朝挙兵時には平家方でした。
この時、重忠は数え年17歳。
しかし、その後は頼朝方につき一ノ谷合戦の坂落としでは愛馬・三日月に怪我をさせないよう、背負って坂を下りたことが平家物語にみえます。
この池の伝承は重忠が何歳くらいの時の話なんでしょう?雨の日の朝9時過ぎに訪れましたが、先客?住人?が池の中にちらほら♪
遊歩道が設置されています。
姿見の池は、かつては付近の湧水や恋ヶ窪用水:こいがくぼようすい:が流れ込み、清水を湛えていました。
その名の由来は、鎌倉時代、恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃、遊女達が朝な夕なに自らの姿を映して見ていたという言い伝えによります。また、この池は「一葉松:ひとはまつ:」の伝承の中にも登場します。
源平争乱:げんぺいそうらん:の頃、遊女の夙妻太夫:あさづまたゆう:と坂東武者:ばんどうむしゃ:で名将といわれた畠山重忠:はたけやまのしげただ:とが恋に落ちました。
ところが太夫に熱をあげるもう一人の男がいて、その男は重忠が平家との西国の戦で討ち死にしたと嘘をつき、あきらめさせようとしましたが、深く悲しんだ太夫は姿見の池に身を投げてしまったと言い伝えられています。
更に時代が下って、江戸時代に描かれた「江戸名所図絵:えどめいしょずえ:」に、このあたりの風景が道興准后:みちおきじゅごう:の歌を添えて登場しますが、その中に姿見の池らしきものが描かれています。
このような伝承に彩られた姿見の池は、昭和四十年代に埋め立てられましたが、平成十年度、環境庁及び東京都の井戸・湧水復活再生事業費補助を受け、昔の池をイメージて整備しました。
また、ほかに湿地、用水路、水辺林等を、周辺の東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」の雑木林等と一体になるよう整備し、かつての武蔵野の里山自然を回復し保全してゆくものです。
一度は埋め立てた池なのに、再び整備されるとは複雑……
池の説明とは別の解説板が。
東山道武蔵路跡についてです。
ぜひ現地でお確かめください。
重忠と夙妻太夫の絵が可愛らしい。
現在では鳥たちもゆったりしているようでした。
書籍『坂の町 江戸東京を歩く』(PHP新書)によると国分寺市西恋ケ窪1丁目の阿弥陀坂は、哀れんだ重忠が阿弥陀堂を建立したことに因んでいるそうです。
不確定ですがこの坂が阿弥陀坂?南側には阿弥陀堂霊園となっています。