石橋山合戦に敗北した源頼朝は土肥椙山と呼ばれる山中に隠れた後、真鶴から船で安房に渡ります。
大まかな地図ですが参考に。頼朝挙兵~安房上陸まで。
ピンクの★のしとどの窟をこのページで紹介します。
この付近まで友人の車で連れて行ってもらいましたが、かなり車酔いするグネグネ道でした。
このトンネルを抜けるとすぐしとどの窟の入口です。(トンネル抜けた後に撮った写真)
トンネルの先は行き止まり。しとどの窟へはこの写真の右手に道があります。
ここから400メートル。
現代のしとどの窟へはこの道を下ります。
入口付近にも説明が。
【桜郷史蹟由来】
箱根伊豆地方は、関東山伏発祥の地として日本山獄宗教史上有数の場である。
随って、この地点一帯は、山伏たちの行場であった。
殊にこの城山は土肥郷(湯河原)の豪族土肥氏城塞であり、治承4年8月24日 源頼朝の堀口合戦の古戦場で、この谷底の「しとどの岩窟」はその時の頼朝が隠れた遺蹟であるために神奈川県文化財保護指定地であるが、又同時に山伏に関係する聖地でもある湯河原地方には、地蔵信仰・観音信仰の遺蹟と共に、弘法大師を崇敬する大師信仰の遺蹟が多い。
ここに安置された弘法大師石像群は、かつて山麓に湮滅:いんめつ:されていたもので、これを世に出し、併せて付近の史蹟顕揚:けんよう:の上にも永く益せん為に、この聖地に遷座したものである。
桜郷史蹟設置発起人
道中はこのような一本道で、所々に距離が表示されています。
一旦下ってここから上り道。
足元は思っていたよりは歩きやすいのですが、目に入ってくる風景が大きな岩。
到着!!この階段の上です。この写真の左側に説明が並んでいますので後述します。
源頼朝一行が山中のここ・しとどの窟に隠れていたときに梶原景時が発見したのになぜか見逃したと云われています。
なんで見逃すねん、景時!!と心の中で叫んできました。
窟内の観音群像については後述の解説板に。
頼朝の時代に観音像があったら隠れられないですよね?
頭上から水滴も。
見学場所は奥行きがなく、全体写真撮るのが難しかったです。
しとどの窟を見学後は階段を下りて説明も。
一番手前は長文なので文字起こしは断念
他の説明もだいたい同じような内容です。
神奈川県指定史跡
【土肥椙山嚴窟(伝 頼朝隠潜地)】
このあたりは今から7、800年前には杉林でおおわれていたので、土肥椙山と呼ばれていた。
新崎川の上流の山間に杉の埋れ木が発見されるので当時を想像することができる。
『吾妻鏡』には源頼朝が治承4年(1180)8月17日伊豆の蛭島に兵をお越し、相模に入って土肥の館に集結、23日300の兵で石橋山に陣し、大庭景親3000、伊東祐親300の兵と戦って敗れ、24日夜明け、椙山に追撃され山中の嚴窟に潜んで九死に一生を得、その夜は箱根権現の永実坊にやどり、再び椙山にもどって3日間椙山の山中に隠れ、28日真鶴から安房に向かったとある。
この嚴窟は頼朝を救い、後の歴史を大きく変えることになったところ、と伝えられている。
神奈川県教育委員会
史跡 土肥椙山厳窟内観音像群
昭和54年4月1日指定
一、所在地 湯河原町鍛冶屋953
一、所有者 吉浜財産区
この観音像群は立像及び座像61体で小松石に彫刻され、これが安置されている。厳窟と共に中世以降 近郷庶民の信仰習俗を知る上に貴重な資料である。
観音像は無銘が多く銘があっても解読不能であるが中に嘉永6年、元治元年、新しいもので長期的に奉安され続けてきたこと、ひいては厳窟を含むこの地が古くから観音信仰の聖地であったことを物語るものである。
【しとどの窟】
治承4年(1180)8月17日源頼朝は伊豆で源氏再興の旗揚げをしたが、同年8月23日、石橋山合戦に敗れ逃げる時、従者7人とともにこの窟に隠れ、九死に一生を得たとされている。
少し離れた場所には図解も。
道中は倒れている燈籠も。
土肥会の方が管理されているそうです。
友人とその友人の合計6人で探訪しました。なかなかすごい場所なので1人ではない方がよさそうです。
連れて行ってもらったのは2月、季節によっては蜂や蜘蛛などが多いかも??
この時期でよかったのかもしれません。