後白河院政下で権力を揮っていた信西は平治の乱の時、この地で首を取られました。
②京阪、JR「宇治」駅より京都京阪バス緑苑坂線約30分乗車「維中前(いちゅうまえ)」バス停下車徒歩25分
宇治田原町指定文化財
信西入道塚
藤原信西(通憲)は平治元年(1159)、源義朝らのクーデターを知り、田原の領地に逃げ込んだが追ってきた源氏の軍兵に殺害される。
大道寺の領民はこの場所に塚を築いてその菩提を弔ったと言われている。
大正5年8月に有志により供養塔が建てられ今に至る。
後白河院政の頭脳ともいえる信西(しんぜい)。俗名は藤原通憲(ふじわらのみちのり)。
藤原信頼(ふじわらののぶより)も後白河上皇のお気に入りでしたが信西から見ると政治的感覚は乏しかったようで、信頼が望んだ昇進を信西が阻止したことで対立が本格的になりました。
信頼は、保元の乱後に信西に不満を持っていた源義朝と手を組み、行動を起こす機会を狙っていました。
そして平治元年12月4日、平清盛が少数で熊野参詣に出かけた隙をついて12月9日夜半、後白河上皇を一本御書に幽閉し二条天皇は内裏から動けなくなり、院の御所であった三条殿は炎に包まれ、逃げ惑う人々は刀や矢の餌食になり地獄絵図のような光景が広がりました。
その西側にあった信西邸にも火が放たれましたが、信西は事前に脱出し大和へ向かう途中この異変を知り、これまでと思い定めて穴を掘った土中で短剣で自ら刺し、従者に埋めさせました。
しかし追手に見つかり掘り返され、首を取られ12月15日に信西の首は都大路を引き回され獄門にかけられました。
掘り返された時、信西はまだ息がありました。
(以上の内容は「週間 絵で知る日本史19 平治合戦図屏風」を参考にしました)
バスを降り徒歩約25分、右手に信西塚の標識と木々の中に塚がうっすら見えます。
標識の場所まで行くと開けて全体を見渡せます。
熊野参詣中の平清盛一行がこの異変を知ったのは和歌山の「切目王子社」付近と云われています。
↓切目王子社についてはこちら↓
https://genpei.sakura.ne.jp/genpei-shiseki/kirimeoujisya/
信西入道塚の付近は長閑な田園風景が広がっているのですが、田んぼに下記の写真をいくつか見掛けました。
地元の方に聞いたところ『柿屋』といい、「古老柿」という宇治田原名物の干し柿を作る棚だそうです。
↓古老柿については京都府にホームページに詳しく記載されています↓
http://www.pref.kyoto.jp/yamashiro/nourin/1197941315892.html
周辺ではそれらしい柿が実っていました。
その地域特有の風景に出会えるのも旅の楽しみ一つですね。