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畠山重忠の墓、重忠まつり2019レポート<富山県富山市>

重忠まつりの幟

頼朝の信頼が厚い畠山重忠の命日法要で35分ほどの読経の後、子供たちの地元の踊り、石投げ大会、抽選会などどなたでも参加できますが基本的に地元の方々ばかりの地元に根付いたお祭りです。
2019年7月21日に参列した際は10:00~11:40くらいまででした。

本来は重忠の墓の前で行われるはずが、前日からの雨で足元がぬかるみ徒歩約1分の八幡宮内で行われました。

【工程】
10:00~10:35 読経
赤飯とビールが配られる
10:45~11:05 地域の踊り
11:05~11:10 重忠節の盆踊り
11:20~11:40 石投げ大会、抽選会

IMG_9408

住所
富山県富山市楡原
交通
JR楡原駅から徒歩25分

参拝について
自由
参拝目安時間
畠山重忠の墓→15分~
重忠まつり→2時間弱
※開催日程などは上行寺ホームページ年中行事でご確認ください。
http://nirehara-jyogyoji.com/information/annual_event.html

お気に入り度
★★★★★
参拝日
2019/07/21
備考
畠山重忠の墓

重忠トンネルのすぐ西側に八幡宮があります。
重忠トンネル

この階段を上がって本殿右側の道を進むと木に囲まれた一角に墓があります。
本殿から徒歩1分ほどです。
この階段を上がる

八幡宮から見える重忠の墓

祭のときだけ幟が立つ

富山の重忠の墓のいわれについては後述します。

重忠の墓から見た八幡宮。
この距離

法要はこの八幡宮内で行われました。上行寺の僧侶の方々による読経。

読経の後、赤飯が配られました♪
赤飯

地域の踊り。子供達が綺麗に着飾って舞っていました(^-^)//””
踊りの一部

美しい衣装

重忠節の盆踊り
重忠節

この日限定の智・仁・勇の重忠餅が販売されていました♪
由来がびっしり

赤→勇、よもぎ→仁、白→智
素敵な餅

お祭りの最後に抽選会!!
なんと運の良いことに「重忠まつりラッキー賞」が当たりました(♡˙︶˙♡)
番号は重忠の享年である42。
当選!!

確か当選10名、ラッキー賞3名、大賞1名でした!!
楡原自治会のうちわ

まつり後にチラシの写真撮っていたら、もう終わったからとチラシもいただけました(^-^)
ラッキー賞の中身は手延べそうめん揖保乃糸♪
重忠まつりラッキー賞

その後は直会にまで呼んでいただき、一緒に昼食。
電車の時間の関係で短時間だけ参加しましたが、地元の方々があたたかい!!

地元の方ばかりの中に見知らぬ私がいて、重忠の墓の写真撮ったりしていたため目立っていたのか、富山市細入地域自治振興会の方が声をかけてくださってたくさん説明してくださいました。
楡原の重忠にまつわる話しは2種類あり、後述の墓と餅の説明に詳しく書かれています。
①重忠が奮闘した犀の角のこと(墓に説明板あり)
②頼朝の寵愛を受けていた丹後の局との関わり(重忠餅の包み紙)

②は大阪の住吉大社にゆかりの「誕生石」あるのですが、この楡原に住吉大社の縁者の方がいらっしゃいました!

高齢になると八幡宮の階段を上るが辛くて重忠まつりに参加する人が減っているそうです。
また、子供たちの踊りは以前は花まつりのときに踊られていたのが一旦廃れて20年以上経った平成6年に復活させて、花まつりとは切り離して重忠節の踊りとして現在は踊られているそうです。

重忠節は元の歌の曲はそのままに歌詞を変えた楡原版があり、公民館内に貼られています!!
直会のときに写真撮らせていただきました。
重忠節と楡原版

重忠節(通常版)の5番です↓

公民館においてあった壊れた幟
そんなに古くないのに

埼玉県深谷市の畠山重忠公史跡公園にある重忠の墓にも出向いて踊ったことがあり、それがきっかけで埼玉県からもこの楡原まで来られたり交流が広がっていることもうかがいました。
その他、楡原から南の猪谷には越中藩、加賀藩の関所があり、関所跡も残されているとか、紅葉のころに名古屋からワイドビュー飛騨を利用すると景色がすごく綺麗などなど。

楡原の皆さん本当にありがとうございました!!
また訪れたいです(^-^)
楡原駅

重忠の墓

全体

祭のときだけ幟が立つ

重忠の墓

道路沿いの幟
道路沿いにも

文字が書いてあるのは少ない

車道になびく幟
車道に

解説板より
この高台は「館:たち:」といわれ、戦国期の永禄12年(1569)能登の守護畠山義則が楡原付近一帯を治める居館:きょかん:のあった場所である。そして、いざ戦乱になると、背後の大乗悟城と南の楡原城に立て籠もった。

重忠墓所について奉行所からのお尋ねに対し、元禄9年(1696)村役人は「すでに真言宗であった頃から重忠公の菩提所として弔ってきたと伝え聞き候」と答えている。ちなみに、墓地は昭和15年までは上行寺領となっていた。

往時からの言い伝えによると
将軍源頼朝が重病にかかったとき、易者が、「生きた犀の角:さいのつの:を煎じて飲むと病がすぐになおる」と言上した。これを聞くや頼朝は忠誠勇武な重忠を呼び、犀角を直ちに用意するように命じた。

重忠は急ぎ、犀が棲んでいるときく神通川の寺津ケ渕にたどりつき、法雲院住職に祈祷を願って水中に飛び入った。死闘の末、息の根も絶えだえの老犀の角を取り、早速頼朝公に献上した。ところが、かの易者が角を見るや、「これは死犀の角なり」とて重忠につき返した。

このことから、重忠は頼朝の不興:ふきょう:をかい、逆臣の身に一転してしまった。重忠は憤まんやるかたなく、悶々の、情を抱きながら犀角を懐に楡原の里に戻ってきた。
重忠公はここ楡原の館で犀角に「三歸明王:さんきみょうおう:」を彫って自分の守り本尊とし、謹慎の日々を過ごしていた。ところが、重忠が楡原にいるということが鎌倉方に知られ、重忠主従6名もろとも追捕の者の手によって、館の東ー御殿前:おとのまえ:で非業の死を遂げた。時に元久2年(1205)6月22日、重忠42歳であった。

(註) 文献によると、重忠は北條義時の攻めにあい、元久2年の同日、武蔵二股川(現・横浜市旭区)で戦死とある。

考えをめぐらしてみると
一、能登守護職畠山氏の祖先祭祀の一つとして、重忠を弔ったものか或いは楡原の地で戦死した一族の将を葬った塚とも考えられる。
一、重忠伝説は真言聖らによって、不運な武将であった重忠追善供養のために、丹後の局の話しとともに語り伝えられてきた可能性がある。なお、基壇の小石塔群は近くから寄せ集めたものであろう。

詳細は「細入村史」参照

畠山重忠の墓について

犀と戦う重忠
犀と戦う重忠

昭和62年に

説明板にある「神通川の寺津ケ渕」
墓より南方向に「寺津橋」を地図上に見つけ、ここかな?と思いながらも片道徒歩1時間以上かかるため見に行くことはできませんでした…

代わりに楡原駅徒歩10分の観光橋からの神通川の眺め。晴天だったらもっと綺麗だったと思います。

神通川にかかる橋

この川のどこかで犀を仕留めた重忠

橋を渡ったところには…
クマに注意

墓の説明板にある丹後の局の話しは重忠餅のパッケージに書かれています。

重忠餅

普段はほそいり保育所前交差点近くの「中﨑菓子店」で2種類のみの販売でこの重忠まつりの時だけ3種類550円で販売されているそうです。
(2019年7月現在)
富山県産の餅米で作られ中に餡が入っていて、丁寧に1つずつ真空パック?になっていました。賞味期限は翌日。

赤→勇、よもぎ→仁、白→智
重忠餅

二口サイズ

細入銘菓 重忠餅

畠山重忠伝説

畠山重忠は智仁勇の三徳を兼ね備えた源頼朝の家来として数々の戦功をあげ、まさに典型的な鎌倉武将と賞賛された人物。
頼朝の妾に丹後の局という女人があった。
局は頼朝の寵愛を一身にあつめ、やがて身重になった。
しかしまだ実子のいない正妻・政子は嫉妬と後嗣問題を恐れ、局の殺害を企てた。

これを知った情深い重忠はこのことを局に知らせると驚いた局は鎌倉を離れ流浪の旅に出た。
しかしその後、重忠は頼朝や政子かに憎まれついには、楡原に落ちここに隠れ住んだ。
月日が過ぎ身二つになった局は重忠に先の厚恩に謝したいと願い探し回ったのちついに楡原の地にたどりついた時すでに重忠はこの世の人ではなかった。

悲嘆の涙にくれた局は墓前にささやかな庵を結び尼となって供養し、そして局もまたこの地に果てた。

※重忠の墓前祭は毎年7月22日の命日に村民の手によって行われている。

白(智)・草(仁)・赤(勇)の三色は、重忠の三徳を意味し徳にあやかりたいとの願いをこめてつくりました。

■販売は中﨑菓子店

住所
富山県富山市楡原650-1
交通
JR楡原駅から北へ徒歩10分

上行寺

重忠の位牌がある上行寺さんでは8月末に盂蘭盆会施餓鬼塔婆供養では神通川で重忠が捕まえた犀の角で彫った「三帰明王(さんきみょうおう)」、「鐙」などが公開されているそうです。
上行寺ホームページ年中行事
http://nirehara-jyogyoji.com/information/annual_event.html

重忠との関連

この階段を上がる

山門には不怠寺の扁額が

上行寺

盂蘭盆会施餓鬼塔婆供養に行けたらこのページにレポート追加しますね。
いつ行けるのか…ヾ(;´・ω・)ノ

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