「二俣川の戦い」と呼ばれる畠山重忠と勢力を拡大を狙う北条氏と戦になり、畠山重忠 終焉の地となりました。
畠山重忠は北条時政の娘婿であり、息子の重保は時政の孫とされています。
※畠山重忠の妻は北条時政の娘のほか、足立遠元の娘もおり、重保は足立遠元の娘との間に生まれたとする説もあります※
源実朝の妻を京から迎えることとなり、京へ上った時に起きた事件がこの戦の原因の1つとされています。
北条時政と後妻・牧野の方の息子である北条政範も上洛しましたが、何故か急死。
そして北条時政と牧野の方の娘婿の平賀朝雅と畠山重保が口論になり、根に持った平賀朝雅が北条氏に讒言したことがこの戦の発端とされていますが、不明なことや個人的に納得いかないことが多いです。
平賀朝雅の母は比企の尼の娘。比企氏はこの戦の約2年前に北条氏が滅ぼした一族です。
いろいろありますが、畠山一族は北条氏の手によって滅ぼされました。
畠山重忠 数え年42歳でした。
畠山重忠公碑
鎌倉時代の武将・畠山重忠公は元久2年(1205)6月にこの地で戦死しました。
この碑は、重忠公没後750年を迎えた昭和30年(1955年)6月に、地元・鶴ヶ峰と埼玉県川本村(現・深谷市)の有志により建立されたものです。
平成22年2月吉日改修
旭区誕生40周年記念事業実行委員会
文字がびっしり
碑の左手にあるのがさかさ矢竹の由来
さかさ矢竹の由来
鎌倉武士の鑑畠山重忠公は、この地で僅かの軍平で、北條勢の大軍と戦って敗れた。
公は戦死の直前に「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と、矢箆:やの:二筋を地に突きさした。
やがてこの矢が自然に根付き年々二本ずつ生えて茂り続けて「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝えられる。
このさかさ矢竹も昭和40年代の中頃までは、現在の旭区役所北東側の土手一面に繁っていたが、その後すべて消滅してしまった。
この度、重忠公没八百年にあたり、ここにさかさ矢竹を植えて再びその繁茂を期待いたします。
横浜旭ロータリークラブ
碑は交差点にあり、角に目印が立っています。
帷子川を越えた彼方の台地(万騎が原)から攻めかかられたとされています。
東南へ徒歩3分のところに畠山重忠の首塚 有り