長寛2(1164)年に現在の埼玉県深谷市で生れた畠山重忠は数え年17歳の時、挙兵した源頼朝方となり、数々の戦に出陣、篤い信頼を得ました。
しかし頼朝が正治元年(1199)に亡くなり、鎌倉幕府の執権を巡った争いが激化。
重忠もいつしか排除される立場となり北条時政の手中に落ち、乳母子の榛沢成清:はんざわなりきよ:らと共に北條義時軍に立ち向かいましたが討ち取れてしまいました。
※榛沢成清については深谷市のホームページ参照↓
http://www.city.fukaya.saitama.jp/i/soshiki/kyoiku/bunka/digitalmuseum/jinbutsu01/1486944239569.html
元久2(1205)年6月22日。数え年42歳。
終焉の地となった横浜市旭区には重忠ゆかりの地が点在し、このページでは首塚、首洗い井戸・鎧の渡しを紹介しています。
畠山重忠公は鎌倉時代の武将で源頼朝の忠臣として幕府の創設にも力を尽くし、智・仁・勇を兼ね備えた武将として名声をはせていました。
しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、旭区の二俣川付近で戦死しました。
ここは重忠公の首が祀られたところといわれています。
現在は西向きに建っていますが、以前は南を向いていたそうです。
旭区誕生40周年記念事業実行委員会
旭区観光協会
※重忠の最期についてはここから南へ徒歩1分ほどの首洗い井戸の解説板に書かれており、このページの下部に写真掲載
左側の板塔婆は文字を拡大すると
【上部】
大圓鏡●畠山重忠公一族郎党精霊
【下部】
郎党精霊供養塔旭区観光
※畠山重忠公一族を葬った六ッ塚と同じようです。
この祠は2021年10月に建て替えられたそうです↓
https://www.townnews.co.jp/0105/2021/11/11/599529.html
そして南へ徒歩1分ほど歩くと「首洗い井戸、鎧の渡し」があります。
畠山重忠公は鎌倉時代の智・仁・勇を兼ね備えた武将
でした。
しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、鎌倉に至急参上せよという北条時政からの命に接して鶴ヶ峰にさしかかったところ、北条勢の大軍に待ち伏せされまいた。
熱戦を繰り広げましたが、弓の名手・愛甲季隆:あいこう さぶろう すえたか:の放った矢に当たり、42歳の生涯をこの地に閉じました。
元久2(1205)年6月22日のことです。
ここには重忠公の首を洗い清めたといわれる井戸がありました。
以前は帷子川:かたびらがわ:の河原に直径1メートル程の穴があり、水が湧いていたといいますが、川の流れが変わって失われてしまいました。
旭区誕生40周年記念事業実行委員会
旭区観光協会