生まれは現在の埼玉県深谷市。
父・畠山重能は平家方。源頼朝挙兵時、17歳の重忠は平家、源氏どちらにつくか乳母子の榛沢六郎成清:はんざわろくろうなりきよ:に相談もしたそうです。
馬で急斜面を駆け下り平家軍を攻めた源義経軍による奇襲・鵯越の坂落しでは愛馬・三日月に怪我をさせまいと馬を担いで駆け下りたという説に基づいた像が建てられている他、墓や産湯井戸など見どころ多数です。
①畠山重忠と愛馬・三日月像
②重忠公ゆかりの石
③畠山重忠の墓
④畠山重忠公没後八百年 慰霊碑
④畠山重忠公史蹟保存会の碑
⑤畠山重能の墓
⑥伽羅の木の由来
⑦板石塔婆
⑧土塁について
⑨しだれ桜の由来
⑩畠山重忠公産湯ノ井戸
※畠山重忠については深谷市のホームページに詳しく記載されています↓
http://www.city.fukaya.saitama.jp/soshiki/kyoiku/bunka/oshirase/1491186726389.html
一ノ谷合戦の時、数え年21歳の畠山重忠。
愛馬・三日月を背負って崖をくだった話は『源平盛衰記』に。
重忠はこの戦のとき、源範頼とともに大手側いた説のほか、源義経とともに搦手側にいた説もあり、あまりはっきりしていません。
でもこんなにカッコイイ像が作られるとは愛されていますね。
後ろ姿
像のすぐ下にあるのがこの石です。
曽つて重忠公の名と言い伝えられしもの三個あり、畠山地内倉●及び別の上の畑中 並びに中谷の水田に在りしも昭和中期頃畑中の岩塊二個は所在不明となりたり。
昔日よりの古老の言い伝えによると北岸地区との争いごと起こり 怒れる重忠公は 三度び無双の大力をもって 中谷山上より北岸めがけて投げつけしところ無念にも届かず畑中に落ちしものと伝えられる。
又ここに在りし石は中谷の山裾にある水田中に投げ●●し石と伝えられ往時より古老により神官を●じ●祓などの神事を施し大切に保存されしものなり。
尚この石には物を置いたり腰掛けにしたりすることは深かく戒められて居り若し これを●したるときは直ちに頭痛など起きるものと伝えられ堅く守られ伝承されし事なり
畠山庄司次郎重忠公顕彰会
※●は読めませんでした
源頼朝に重宝された重忠ですが、頼朝亡き後は北条氏により……
この建物の中に六基の五輪塔があり、中央が重忠とされています。
柵の隙間から六基確認できます。
六基のどれが畠山重忠の五輪塔か図で示され、また音声案内も有ります。ぜひ現地でお確かめください。
五輪塔六基 大正13年3月31日指定
鎌倉時代の関東の代表的武将 畠山重忠(秩父氏の出)は長寛2年(西暦1164年)父重能の二男としてこの地 畠山館に生まれ幼名を氏王丸といい、長じて畠山庄司次郎重忠となる。
剛勇にして文武両道に勝れ源賴朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず伊勢国沼田御厨の地頭職を兼ねた。
鎌倉武士の鏡として尊敬されたが賴朝なきあと讒言により北条氏のため横浜市二俣川にて一族と共に討たれた。
時に重忠42才 子・重秀は23才であった。
後にこの地畠山館跡に重忠主従六基の五輪塔を建て暮碑としてまつった。
この地の東北方に重忠生湯の井戸がある。
また北方300メートルの荒川の嶮崖に鶯の瀬という浅瀬がある。
ここは重忠が岡部六弥太(棒沢成清の説もある)のもとに行き帰路雨に逢い洪水で渡れずいるとき鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたという所である。
その時よんだと伝えられる
時ならぬ岸のおささのうぐいすは
あさせたづねて鳴き渡るらん
との歌碑がある。
埼玉県教育委員会
深谷市教育委員会
畠山重忠公史跡保存会
この写真は駐車場近くに設置されており、墓の近くの解説は若干内容が異なります。
特に説明はありませんでした。
畠山重忠の父である重能:しげよし:は平家方。
大番役(京の守護)として京に滞在していた重能と弟・小山田有重:おやまだありしげ:は平家都落ちの時、同行しようとしますが平知盛が宗盛に東国へ帰すように進言。宗盛より帰郷を促されました。(平家物語)
川本町指定文化財
(昭和36・11・3指定)
重忠公の父・重能の墓は、重忠墓の東南、椎ノ木の下にある自然石と伝わる。
重忠公の祖先は秩父権守 重綱以来、秩父郡にあって、代々武蔵の総検行職を司どり、重能の代に秩父郡吉田町から、川本町畠山に居を移し、畠山庄司となり畠山姓を名乗った。
※補足※
川本町は2006年の合併により深谷市となったそうです
この伽羅の元木は畠山重忠公にゆかりのある名木で、浦和市の常盤公園にあり、市の文化財となっています。
永い年月を経て老化したため、二世を挿木により採取し、その苗木を川本町が譲り受け育てたものです。
畠山氏が秩父に住み秩父氏を名乗っていた頃、先祖の墓地にあった伽羅で、畠山に移った後、墓は取こわされ、土地の名主の庭に移植されたものといわれています。
その後転々として手入れをするものもなく過ぎましたが、明治の初期、武蔵国留守総検校職の畠山氏に関係がある、浦和裁判所が設置されるのを機に、その庭に植付られ、後に裁判所が移転したので、現在の常盤公園となったものです。
この伽羅の木は畠山氏発祥のこの地に平成2年4月植付られたものです。
この伽羅の木が立派に育つよう見守って下さい。
上記の伽羅の木のすぐ近くにあるのがこちら。
深谷市に合併される以前に文化財指定されています。
畠山重忠の館の周囲に廻らされていた土塁跡
ここ??
東屋のような井戸
秩父より進出してきた、秩父荘司重能は武蔵国男衾郡畠山村(現 大里郡川本町畠山)に館を構えました。
のちの長寛2(西暦1164)年、秩父荘司重能と相模の豪族・三浦大介義明の娘・眞鶴姫との間に二男として重忠が誕生し、その際用いた井戸として【重忠公産湯ノ井戸】と称され伝えられております。
又、この井戸は、江戸時代の記録に残された、古井戸二ヶ所のうちの一つでもあります。
畠山重忠公 史跡保存会
ざっと紹介しましたが像の迫力はやはり現地で見ていただくのが1番です。
②秩父鉄道「永田」駅から南へ徒歩20分
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