木津川で処刑された平重衡の首塚は埼玉県にも伝わっています。
本庄市指定文化財 平重衡の首塚
この地は、一の谷合戦の後、捕らえられた平重衡の首を児玉党の蛭河庄四郎高家がこの地へ持ち帰り供養した首塚であると伝えられている。
道路に面した場所に標識が立ち、そのまっすぐ先に首塚があります。
大きな文字で供養塔と刻まれています。
比較的新しい印象を受けましたが、昭和60年に建立されたもののようです。
後ろの祠のようなものが気になりましたが、関係あるのでしょうか??
文字も読めなくなっています。
一ノ谷合戦で生捕りにされ、鎌倉に送られた後も高待遇だったと云われている平重衡。
平家と戦った源氏軍の地でも首塚として大事にされているのはすごいことだと思いました。
隣接する駒形神社。
首塚を建てた庄高家の子・定重が蛭河太郎と名乗り、この地に邸があったとされています。
□御縁起(歴史)
当地は、児玉党蛭川氏の本貫地とされ「児玉党系図」では摂津一ノ谷合戦で戦功のあった庄四郎高家の子・定重が蛭河太郎を称している。当地の中央やや北東寄りの小名東廓で、蛭川氏の館の周囲を巡っていたと伝わる堀跡が確認されている。応永25年(1418)の「足利持氏御判御教書」には「児玉郡蛭河郷」と見える。
当社の創建については『児玉郡誌』に「当社は延喜年中(901-923)有道宿禰氏道、牧宰惟継、旧字宮田(現在鳥居)の地に勧請する所にして延久年間(1069-74)武蔵守維行の男弘行、当国御牧の別当の時牛馬の守護の神たるを以て良馬蕃殖を本社に祈り、社殿を修理し神田若干を寄附す。(中略)
天文(1532-55)の末、北条氏康平井上杉氏と合戦の時兵火に罹り烏有に帰したるに依り、現今の地即ち字坊畑に仮宮を営む。(後略)」と載せられている。
蛭川氏の館跡から見て北東にかつて金鑽(かなさな)神社があり、南西に当社が鎮座することから、あるいは蛭川氏によって館の鬼門に祀られたのが金鑽神社で、裏鬼門に祀られたのが当社であったとも推測される。
『風土記稿』蛭川村の項には「駒形権現社 村の鎮守、能淵(のうえん)寺持」とある。
別当の能淵寺は真言宗の寺院で、開山等は不明である。
当社は、明治初年の神仏分離により能淵寺から離れ、後に村社となった。明治40年には、金鑽神社をはじめ地内の六社を合祀した。
□御祭神と御神徳
駒形神…馬を保護し、その病を癒す
ここは昔から馬や牛を守って下さる神なんですね。
解説に出てくる能淵寺は現在の地図で確認すると、駒形神社の北東に位置します。徒歩6分ほどの場所なので機会があれば立ち寄ってみたいです。
遠かったけど、またいつか首塚にお参りしたいと思います。