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平重衡塚<京都府京都市>

妻が建てた

平重衡の北の方(妻)である藤原輔子:すけこ/ほし:が建てた墓。

重衡は一ノ谷合戦で生捕りにされたましたが、輔子は約1年後の壇ノ浦合戦の時も平家一門と行動を共にしており入水しましたが引き揚げられました。
その後は京の日野に住んでいた姉のもとに身を寄せており、処刑前に重衡と最後の別れを惜しみました。

重衡は形見として噛み切った髪の毛や着替えた衣を渡しましたが、筆跡こそが形見という輔子の望みに応え歌を詠み交わす場面が平家物語覚一本に描かれています。

日陰

解説板より
平重衡塚

この地は、平重衡の北ノ片・大納言佐局が、平家没落後、身をよせていたところと伝えられる。

一ノ谷合戦で捕らえられ、鎌倉に送られた平重衡は、南都大衆の訴えによって前年の南都焼討の責を問われ、文治元年(1185)に鎌倉から奈良に引渡されたが、途中、この地に立ち寄って大納言佐局と別れを惜しんだ。

その情景は、付近の合場川・琴弾山の名とともに、平家物語に美しく語られている。

木津河原において首をはねられた重衡の遺骸は、すぐさま引取られ、火葬後、この地に埋葬されたといわれる。

京都市

誤字有り

胴体は斬首された木津川付近に捨てられていると予想した藤原輔子が探させました。

斬首されたのは6月23日。現代の暦に当てはまると1ヶ月~1ヶ月半ほど後の日にち、つまり7月下旬、真夏!!
運ばれて来る間に悲惨な状態になっていたと平家物語は語ります。

法界寺(重衡塚から徒歩約13分。京都市伏見区日野西大道町19)で火葬され骨は高野山に送り、輔子が墓が建てたのがこの地だそうです。
平家物語を読んだ当初はなぜ高野山に??と疑問でしたが、恐らく源氏に墓を荒らされないためなんですね。

塚は鎖で近づけない状態ですが、望遠撮影は可能です!
入口から

立派

下記に地図を貼りましたが住宅が立ち並ぶ一角、公園のような場所に塚はあり、近くには標柱も建てられています。
住宅地

「従三位平重衡卿墓」より下、草で隠れている部分にも文字がありますが読み取れませんでした。
恐らく塚までの距離か方角が書かれているようです。

住所
京都府京都市伏見区醍醐外山街道町
交通
①京都市営地下鉄「石田」駅から東へ徒歩15分
②地下鉄「石田」駅または「六地蔵」駅から京阪バス乗車、「日野」バス停下車。北へ徒歩約10分
③京都市営地下鉄及びJR「六地蔵」駅から北東へ徒歩30分

参拝について
自由
参拝目安時間
10分~
お気に入り度
★★★★★
参拝日
2022/07/23他、多数
備考

地下鉄石田駅と重衡塚のほぼ中間にある「カフェぷらんたん」で一休み
屋外

店内飲食、テラス席の他、持ち帰りメニューも。
ソフトクリームは税込み200円、水も付いてます(2022年7月現在)
暑い日

大きな木が目印。
誰でも

診療所や施設が併設されていますがカフェは誰でも利用可。
意外

公式ホームページ↓
https://minamiyamashiro.com/printemps/

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